続日本後紀
続日本後紀

平松文庫は公家西洞院時慶を遠祖とする平松家伝世の3、100余冊の集書である。平松家は江戸時代の初め西洞院時慶の二男参議時庸が宗家より分家して一家を興し、平松を称したことに始る。子孫は世襲して明治に至り、華族に列して子爵を授けられた。

平松家は近衛家の家司として代々朝廷の記録を司り、日記の家と称せられていた家柄のために、本文庫には同家累代の人々が筆録した朝廷の儀式典例等の記録文書が豊富である。とくに日記類に貴重なものが少なくない。

日記類中、まず最初に挙げなければならないものは「兵範記」「範国記」「知信記」の三種であろう。

「兵範記」は西洞院兵部卿平信範(1112~1187)の日記で、信範21歳より 60歳にわたるものであるが、その間欠くるところも少なくない。信範自筆の「兵範記」は、29巻が陽明文庫に、25巻が本文庫に収蔵されている、自筆本は当時の宣旨類、その他の文書の裏面に記され、しかも当時のものとしては完全に保存されているから、表裏合せて保元平治時代の平氏側を代表する唯一の根本資料として最も珍重すべきものである。なお原本の欠を補う新写本24巻が別に添付されている。

「範国記」は平(西洞院)範国の長元元年(1028)4月より同12月に至る日記であり、また「知信記」は平(西洞院)知信の天承3年(1131)正月より同3月に至る日記である。いずれも「兵範記」と同様に信範の自筆写本である。両書とも平安朝史研究の貴重な根本資料であることはいうまでもない。

「兵範記」は重要文化財に指定され、また飜刻本もあるが、「範国記」「知信記」は共に未刊で、重要文化財に指定されていない(*1)が、史料的価値は「兵範記」に譲るものではない。特に「知信記」の裏文書には史料的価値に富むものが多く、学界より注視されている。なお日記類には「吉記」「管見記」「明月記」「山槐記」「二水記」等が収蔵され、いずれも近世期の複写本であるが、当家が日記の家であったことを首肯させる。

「覚」「控」「日記」等の記録のほか、有職故実に関する文書類も多いが、国文学書も少なくない。万葉、古今等の勅撰和歌集、伊勢、源氏等の物語類の転写、あるいはその註釈にも見るべきものがある。真名字本「平家物語」は平家の一異本として、斯界の研究者より高く評価されている稀覯書である。

その外連歌書に恵まれていることも本文庫の特色の一つとして看過できないであろう。肖柏、宗祗以下当時の名匠の詠草、手引等が多い。漢籍は質量ともに貧しいが、慶長古活字版「後漢書」の如き珍籍も多少架蔵されている。

平松家文庫は明治43年(1910)11月故平松時厚子爵(1845~1911)が、典籍の保全と学術研究のために伝世の文書記録と典籍を、挙げて本館に永久寄託したことに由来する。大正3年子爵の嗣子時陽子が家督を相続した際、本館は時陽子より寄託図書の一括買上げを依頼され、同年11月これを購入した。

なお平松時厚子爵は弘化2年(1845)平松時言の子に生れ、明治元年仁和寺宮に随って、鳥羽伏見の戦に参じ軍中の書記役を司どり次いで参与、弁事等に任ぜられた。

その後三河国裁判所総督等を経て明治3年6月新潟県知事、同4年11月新潟県令を歴任し、明治17年7月子爵を授けられ、同23年6月元老院議官に任ぜられた。また議会開設以来の貴族院議員であった。

(解説の出典: 京都大学附属図書館編「京都大学附属図書館六十年史」第3章第3節)
*1 「範国記」「知信記」は、その後昭和61(1986)年に重要文化財に指定されました。
 

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