挿絵とあらすじで楽しむお伽草子 第8話 塩焼き文正

挿絵とあらすじで楽しむお伽草子
あらすじは、古文は苦手、何を言っているのかさっぱりわからない、でもお話の内容は知りたい、という方のために、わかりやすさを一番に考えました。厳密な現代語訳というわけではありませんが、お話の雰囲気が伝わるように工夫してあります。

第8話 塩焼き文正

■ 上巻 ■

 昔から、めでたい例は色々と伝わっておりますが、中でも身分の低い者が出世して、しかも初めから終わりまで良いことづくめで、何の悩みもなかった例となりますと、やはり常陸の国の塩焼き文正の例に尽きるでしょう。
 常陸の国、鹿島大明神の大宮司殿は、大金持ちで子宝にも恵まれ、何一つ不自由のない暮らしをしておりました。その大宮司殿に文太という下人が仕えていました。下人とはいえたいへん正直者で、気が利き、主人の命に背くことがありませんでした。そんなわけですから大宮司殿も文太のことを大変かわいがっておりました。

【立派な大宮司殿のお屋敷の様子。奥方や子供と並んで大宮司殿が奥に座っています。その前にかしこまっている緑色の着物が文太です。】
【立派な大宮司殿のお屋敷の様子。奥方や子供と並んで大宮司殿が奥に座っています。その前にかしこまっている緑色の着物が文太です。】


 しかしある時、文太の心を試してみようとでも思ったのでしょうか、大宮司殿は文太を呼んでこんなことを言いました。
「文太よ、お前は長年わしに仕えてくれてはいるが、何かにつけてどうも気に入らないやつだと思っていた。もうお前の顔など見とうない。どこへなりとも行ってしまうがよい。性根を入れ替えたなら帰ってまいれ」
 驚いたのは文太です。それもそのはず、たとえ千人、万人の人が大宮司殿に背いたとしても、自分だけは決しておそばを離れまい、と固く心に誓っていたのですから。けれどもこのように仰せを被ったからにはどうしようもありません。泣く泣く大宮司殿の館を出て行くことにしました。もちろん、このような仕打ちを受けたからといって、大宮司殿に対する一途な忠誠心は変わりません。生きてさえいれば、いつかきっと再びお仕えすることもできるであろうと、大宮司殿の館を後にしました。
 

【文太は泣く泣く大宮司殿の館を後にします。】
【文太は泣く泣く大宮司殿の館を後にします。】


 突然暇をもらった文太は泣く泣く大宮司殿の館を後にします。
 もとよりあてなどあるはずありません。どこへ行くともなく足にまかせて行くうちに、塩焼きをする海辺にたどり着きました。文太はある塩屋に入ってみました。
「わしは旅の者じゃけんど、お慈悲じゃからここにおいてもらえねえだべか。」
 文太のふだんの心がけがよかったからでしょうか、
「よるべない者のようではあるが、気の毒な。ここにおいでなさい」
と、文太を置いてくれることになりました。
 

【文太はある海辺の塩屋を訪ねます。主人の情けでそこにおいてもらえることになりました。】
【文太はある海辺の塩屋を訪ねます。主人の情けでそこにおいてもらえることになりました。】


 さて、文太は塩屋に世話になり、食べさせてもらいながらも、何もすることがありません。ただただぼんやりと過ごしておりました。それを見た主人が言いました。
「お前様はどうも暇をもてあましておいでのようだ。それも気の毒なこと、何か得意なことはござらぬか」
「そんなものはねえだ。ただ馬の世話ならできる」
「しかしうちは塩を焼いて売るところだから、それでは役に立たぬなあ。そうじゃ、塩を焼くには薪が必要なのだが……。」
「そんなのはおやすいご用だ」
 文太はそれから毎日薪を取りに行きました。もとよりたいそう力持ちでしたので、他の人が五、六人かかって運ぶ薪を一人で集めてしまいます。主人はこれはこれはまたとない者だと大変喜びました。
 

【力持ちの文太は軽々と重い薪を拾い集めてしまいます。塩屋の主人も満足そうです。】
【力持ちの文太は軽々と重い薪を拾い集めてしまいます。塩屋の主人も満足そうです。】


 このようにして何年かたつうちに、文太は自分でも塩を焼きたいと思うようになりました。そこで主人に、
「今まで働いてきたお返しに、塩釜をひとつもらえねえべか。あんまり暮らしが不安定じゃから、わしも自分で塩を焼いて売りてえだ」
と頼みますと、前から文太を何かと気の毒に思っていた主人は、気前よく塩釜を二つくれました。
 それからというもの、文太は塩を焼いて売るようになりました。文太の塩は美味しいばかりでなく、病気も治るし気分もよくなるとの評判で、飛ぶように売れます。おかげで文太は、またたく間に大金持ちになりました。しかも、文太の塩釜はふつうの十倍もの量を焼くことができたのです。塩売り商人たちが「文太殿の塩」と名付けた塩は、大量に生産されて行きました。世間の人々は不思議に思いましたが、悪口を言う者もなく、文太の成功をほめそやすばかりでした。
 

【美味しくて身体にもよい文太の塩は大人気。飛ぶように売れて行きます。】
【美味しくて身体にもよい文太の塩は大人気。飛ぶように売れて行きます。】


 やがて文太は、文正つねおか殿と呼ばれるようになりました。このお話でも、これからは文正と呼ばねばなりますまい。
 文正は立派なお屋敷をつくり、広い敷地のあちこちに蔵を建てて、金銀財宝を積み上げました。常陸の国の貧しい者たちは、「文正はもともと賤しいやつだが、そんなことはかまわない、要は給料のよしあしだ」とばかりに、こぞって文正のもとに集まってきます。そんなわけで、文正は何百人もの男女を召し使うようになりました。
 ある時文正は、おもだった家来たちを呼び出しました。
「お前たちに預けておる財産がどれだけあるか、それぞれ書いてみろ」
家来たちは、
「あまりに多すぎて、とても数えきれません」
と口々に申しますので、文正は我ながら感心してつぶやきました。
「たとえ帝様でも、わしほどの金持ちではあるめえ」
 

【お金持ちになった文正は立派な屋敷に住み、たくさんの家来を召し使うようになりました。家来が文正に財産が多すぎて数えられないと報告しています。】
【お金持ちになった文正は立派な屋敷に住み、たくさんの家来を召し使うようになりました。家来が文正に財産が多すぎて数えられないと報告しています。】


 ただ、これほどの果報者でありながら、後を継ぐ子供は一人もおりません。でも、文正本人はあまり気にしていないようでした。
 ある人が、文正の噂を大宮司殿の耳に入れました。
「昔、お宅にお仕えしておりました文太という下人は、塩を焼いて売っているうちに大金持ちになって、『たとえ帝様でもわしにはかなうまい』などと申しておるそうです。一度お召しになってはいかが」
 大宮司殿はめずらしい話だと思い、早速文正を呼びにやりました。
 文正は、久しぶりにお呼びがかかったのがうれしくてたまらず、すぐにやってきて、庭先に控えておりました。大宮司殿はそれを見て、
「身分は低いやつだが、これほどの果報者なのだから」
と思い、もっと近くへ来るように言いました。文正は恐縮するばかりです。それでも何度も呼ばれるので、これ以上遠慮するのはかえって失礼であろうと、縁側に上がりました。
 

【久しぶりに大宮司殿に呼ばれ、喜んで参上する文正。大宮司殿は文正に子供の大切さをとくとくと語ります。】
【久しぶりに大宮司殿に呼ばれ、喜んで参上する文正。大宮司殿は文正に子供の大切さをとくとくと語ります。】


「文太よ、お前は、大金持ちになったことを自慢するあまりに、『たとえ帝様でもわしにはかなうまい』などと、おそれ多いことを申しておるそうだな」
「おそれいりましただ。手前のようなつまらぬやつが、こげな金持ちになるとは、てえしたことだと思うあまり、あさはかなことを申しましただ」
「どのぐらい財産があるのだ。隠さず申せ」
「ご主人様に隠しごとなんぞ、とんでもねえ。金銀や綾錦は山のよう、屋敷のあちこちに建てた蔵の数は、数え切れないほどでごぜえますだ」
 

【文正は大宮司殿に自分の財産が数え切れないほど多いことを話します。蔵には米俵がぎっしりです。】
【文正は大宮司殿に自分の財産が数え切れないほど多いことを話します。蔵には米俵がぎっしりです。】


「なるほど、果報者じゃわい。ところで、子供は何人おる」
「一人もごぜえませんだ」
「それはいかん。人間という者はの、子供が何よりの宝なのじゃ。どれほど財産を持っていようと、子供がいなければ、いずれみな他人のものになってしまうぞ。それよりはいくらか神仏に寄進して、一人でも子供を授かるよう、お願いしてみるがよい」
 文正はなるほどと思い、すぐに我が家へ帰ると、有無をいわさず女房を追い出そうとしました。女房としては寝耳に水。
「めずらしく大宮司殿からお呼びがかかっていたと思ったら、突然私を追い出そうとするなんて。大宮司殿に、新しい奥さんを世話してやるとでも言われたのかしら」
と疑いました。
 

【家に帰るなり文正は女房を呼びつけて追い出そうとします。女房はびっくり。】
【家に帰るなり文正は女房を呼びつけて追い出そうとします。女房はびっくり。】


「どうしてこんなに急に出て行けなんて言うの。きっと大宮司殿から何か言われたのね。それとも、どこかの娘さんを好きになったの。そうだとしても、ちゃんと理由を言って追い出すのが筋でしょう。長年連れ添ってきたかいもない……」
 文正は、女房が怒るのも無理ないことと思ったようです。
「大宮司殿のご命令でもねえし、ほかの女に心変わりしたっちゅうわけでもねえ。決してお前のことをあだやおろそかには思っておるわけではねえが、大宮司殿が『子供こそ何よりの宝だ』と言わしゃったのが、身にしみたんじゃ。それで、お前にはこどもができねえから追い出すなどと言ってしもうたんじゃ。男の子でも女の子でもええ、一人産んでくれろ」

「何を言うのです。よくお聞きなさいよ。私たちは、あなたが二十歳、私が十三歳の歳から連れ添っていながら、もう四十歳になるまで子供ができなかったのですよ。それなのに、どうしてこの年になって産むことができましょう。そういうことなら、若い奥さんをもらって、産ませたらいいでしょう」
 文正は、
「連れ添って三十年にもなる女房を、子供がほしいからといって離縁などすれば、人聞きもよくねえなあ。大宮司殿も、神仏にお願いせよと言わしゃったのじゃから」
と考え直して、
「今さら離縁なんぞできるもんか。大宮司殿も言わしゃったように、宝物を神仏に差し上げて、子供を授けて下せえとお願いしてみるべ」
「そうね、神様や仏様のお力添えがなければ、生まれっこないわ。さあ、お参りしましょう」
 

【文正は大宮司殿に子供が何よりの宝だと言われたことを話して聞かせます。神様仏様に子供を授けてもらおうということになりました。】
【文正は大宮司殿に子供が何よりの宝だと言われたことを話して聞かせます。神様仏様に子供を授けてもらおうということになりました。】


 そこで二人は、七日間精進潔斎しました。都には霊験あらたかな神仏がおいでのようですが、遠すぎますので、常陸の国の守護神である鹿島大明神にお参りしました。いろいろな宝物を奉納して、三千三百三十三度の礼拝を毎日続けて、子供を授かるようにお願いしました。
 

【文正夫婦は鹿島の大明神に参詣し、子供を授けてくれるように祈ります。】
【文正夫婦は鹿島の大明神に参詣し、子供を授けてくれるように祈ります。】

 

 七日目の夜、文正は夢を見ました。神殿の扉がギーッと開いたかと思うと、神様が非常に気高いお声で、
「なんじの願いの筋は、いかにも聞き捨てにできぬゆえ、この七日間というもの方々を探し回ったが、なんじに授ける子供はいずこにも見あたらぬ。さりながら、格別のはからいによって、これを遣わす」
とおっしゃって、二房の蓮華の花を下さいます。それを右の袂に入れたと思ったとたん、目が覚めました。文正は、夢のお告げを大変喜びながら、家に帰りました。

 その後まもなく、女房がみごもりました。文正はこの上なく喜んで、
「どうせなら、板東一の男の子を産んでくれろ」
などと申しておりました。
 やがて九ヶ月がたって、それはそれは美しい女の子が生まれました。
「あれほど約束しておったでねえか! なのに、なんで女の子を産んだべか!」
と、文正は怒りましたが、常陸殿という年輩の侍女に、
「子供は女の子の方がよいのですよ」
となだめられて、思い直したのでしょうか、
「そんならすぐ連れて来い」
と言いつけました。さて、赤ん坊を見てみると、またとなくかわいらしい女の子です。文正は、乳母や世話役の侍女たちも美しい者をよりすぐって、この姫君を大切に育てました。
 

【文正夫婦に玉のような女の子が生まれました。乳母や侍女をそろえて大切に育てます。】
【文正夫婦に玉のような女の子が生まれました。乳母や侍女をそろえて大切に育てます。】


 するとまた翌年、女房は再びみごもりました。そして、もっと美しい光り輝くばかりの女の子を産みました。生まれたと聞いて喜んだ文正は、
「今度は男かの。女かの」
と尋ねました。姉君の時も女の子だとしかられましたので、まして今度もまた「女の子です」などと言おうものなら、もっとご機嫌が悪かろうと思って、誰も答えません。それでも何度も何度も尋ねられて、
「例のとおりです」
と答えました。すると文正は、
「わがあるじ大宮司殿は、十人のお子さんをお持ちじゃが、男の子か女の子か、どちらかじゃ。『例のとおり』などという子があるもんか」
と言って、なおも尋ねてきます。仕方なく、
「女の子です」
と答えると、案の定、たいそう腹を立てて大声でわめきました。
「一人目の時も約束を破って女の子を産んだでねえか。なんでまたわしの言いつけに背いて、女の子を産んだべか! もうええ、その子を連れて出て行っちまえ」

 その時、年輩の侍女たちが口々に申しました。
「なんと考えの浅いことをおっしゃいますことやら。男の子などは、どんなに立派に育ったとしても、大宮司殿に召し使われるのが関の山です。それに比べて、美しい姫君には、立派な大名様がお婿さんにならないとも限りません。あの大宮司殿のご子息様でも、お婿さんにすることができるかもしれませんよ」
 「この姫君たちのご器量は、日本一とお見受けします。美人という噂が広まれば、この国の大名様はいうまでもなく、都のお公家さんの北の方におなりになるかもしれません」
 「この上ないご縁だとお思いになりませんか。いくら運がよくていらっしゃっても、姫君のおかげでなくては、どうして高い身分になることができましょう。美しい姫君は願ってもないことだとお思いになりませんか」
 そこで文正は、なるほど女の子もよいものだと思い直して、赤ん坊を連れてこさせました。姉君よりもっと美しい子でしたので、姉君の時と同じように、乳母や世話役の侍女も、美しい者をとりそろえて仕えさせました。姉君には蓮華御前、妹君には蓮(はちす)御前という名前をつけました。
 

【文正は美しい二人の娘たちを大切に大切に育てました。美しい侍女たちがたくさんお仕えしています。】
【文正は美しい二人の娘たちを大切に大切に育てました。美しい侍女たちがたくさんお仕えしています。】

 

 月日がたつにつれて、姫君たちはますます光り輝くように成長しました。やがて姉君は十一歳、妹君は十歳になりました。誰に教わるともなく、それぞれ琵琶や琴を大変上手に弾きました。四季折々の景物を楽しみ、歌を詠んだり詩を作ったりして、優雅に暮らしておりました。また、何事につけてもこの世の無常を観じて、仏の教えをよく勉強し、この世ばかりでなく来世のことまでも熱心に祈るのでした。
 両親は、二人のすばらしい有様に喜んで、わが子ながらおろそかにはできないと思い、自分たちの屋敷の北側に、まるで極楽浄土か竜宮城かと疑うばかりの立派な屋敷を建てて、姫君たちを住まわせました。二人のおそば近く仕える侍女から下女にいたるまで、器量も気立てもすぐれた者を選んで、大切に育てている様は、まるで天女が空から舞い降りてきたかのようです。

 この姫君たちの評判を聞いて、近国の大名たちは、我も我もと競って恋文を送りましたが、全く相手にされません。姫君たちは、つねづね、
「どうして私たちは、こんな田舎に生まれたのかしら。花の都で優雅な暮らしをしてこそ、この世に人間として生まれてきた甲斐もあるでしょうに」
と嘆いており、帝のお妃やお公家さんの北の方になることを夢見て、平凡な結婚などとんでもないと思っていたのです。
 文正はというと、大名たちからの求婚を名誉なことと喜び、娘たちにもさとすのですが、全く聞き入れません。そんなことが何度も続いたので、大名たちが姫君を奪いに来るのではないかと心配し、家来を集めて厳しく守らせました。すると大名たちは、姫君の物詣での途中に襲って奪い去ろうとねらいました。文正はそのことを知って、屋敷の西側に立派な黄金のお堂を建て、阿弥陀仏をはじめありとあらゆる仏様の像を安置して、姫君たちに拝ませました。こういうわけで、大名たちはなすすべもなく、ただ片思いに胸を焦がしていました。
 

【物詣での時に姫君たちがさらわれては大変と、文正は屋敷の近くに姫君たち専用の立派なお堂を建てました。】
【物詣での時に姫君たちがさらわれては大変と、文正は屋敷の近くに姫君たち専用の立派なお堂を建てました。】

 

 大宮司殿は、こうした噂を聞きつけて、文正を呼び寄せました。
「聞くところによると、お前には光るように美しい娘たちがおって、大名たちからひっきりなしに求婚されているそうだが、本当か。その娘は、他人の嫁にしてはならぬぞ。わしの息子たちの中のいずれかを婿にせよ」
 文正は、「女の子っちゅうのは、まっことええもんじゃ。男の子じゃったら、どねえに期待したところで、大宮司殿に召し使われるのが関の山じゃろうに。その大宮司殿と親戚になれるとは、めでてえこった」と思い、
「かしこまりましただ。娘どもに伝えてから、お返事いたしますだ」
と答えて、家に帰りました。
 

【大宮司殿が文正の娘を息子の嫁にほしいと仰せです。文正は天にも昇るような気持ちです。】
【大宮司殿が文正の娘を息子の嫁にほしいと仰せです。文正は天にも昇るような気持ちです。】



■ 中巻 ■

 文正は、
「やあめでたや、めでたや。大宮司殿の坊ちゃんを婿にするぞ! 『娘の嫁入り仕度を整えよ』との仰せじゃ。さあさあ、急いで準備するだ」
と、帰るなり大騒ぎです。
 姫君たちの屋敷へ行って、事の次第を大変うれしそうに話しますと、姫君たちは聞いたとたんにしくしく泣き出しました。文正はびっくりして、どうしたことかと、狐につままれたような顔をしています。
「どうしてそんなことをおっしゃるのです。私は決してお受けいたしませんのに。身分は賤しくとも、大宮司殿ごとき、少しもありがたいとは思いません。もし大宮司殿のご子息に嫁いだら、姉妹の姫君たちや兄弟の奥様たちより下座に座らされて、馬鹿にされることでしょう。それは悔しい限りです。『大宮司殿はご主人だから、侍女としてお仕えしなさい』とおっしゃるのでしたら、そのとおりにいたしましょう。でも、嫁入りの件は絶対にご免こうむります」
と言いますので、文正はたいそうがっかりして、
「わしの考え違いじゃったかの」
とぶつぶつ言いながら、つまらなそうに立ち去りました。
 

【大宮司殿の息子との縁談を聞いた娘たちはしくしく泣き出します。たいそう乗り気だった文正はがっかりです。】
【大宮司殿の息子との縁談を聞いた娘たちはしくしく泣き出します。たいそう乗り気だった文正はがっかりです。】


 その後、大宮司殿からは、毎日矢のように催促があります。文正は、面目ないことながら、お返事だけはしておかねばと思い、大宮司殿の屋敷へ行きました。
「どういうつもりなんでごぜえましょうか、娘どもは、『どんなご命令があっても嫁入りはいたしません』と言い張ってききませんで、手前にはどうしようもごぜえませんだ。どうぞもうこのお話はご勘弁くだせえ」
 大宮司殿はすっかり腹を立てて、
「文正ほどの分際で、わしの息子に不足を申すとは、けしからんことだ。つべこべ言わず、すぐに娘を嫁入りさせよ」
と厳しく命じました。
 文正は、また姫君たちの屋敷へ行きました。
「わしはお前たちを授かったのがたいそううれしゅうて、今まで大切に育ててきたんじゃが、その挙げ句に、お前たちのせいでこんなに悩むことになるとはのう……。無念じゃわい」
と嘆きますと、姫君たちは、
「私が縁談をお受けしないからといって、どうして罪もないお父様にご迷惑のかかることがございましょう。世の中もおもしろくありませんので、念願どおり尼になるのだと、大宮司殿に申し上げて下さい。もし大宮司殿のご子息との縁談を断って、どこかほかの大名様に嫁ぐようなことでもありましたら、その時はいかようなおしかりも受けましょう、と」
 それを聞いた文正は、さめざめと泣きだしました。
「お前たちはこげに美しいのに、なんで尼になるなどと言うのじゃ」
「今すぐにというわけではありません。こうしている間は朝晩お目にかかれるのですから、それだけでもよしと思って下さい」
 文正はそれももっともだと思って、大宮司殿に事情をお話しすると、
「そこまで思い詰めているならばどうしようもない。神仏から授かった子供だから、考え方も少し変わっているのだろう」
と思って、その後はその話に一切触れませんでした。

***

 さて、この常陸の国は小松殿という方の領地でしたが、その小松殿の親戚の衛府の蔵人道茂(えふのくらんどみちしげ)という人が、国司に任命されて都からやってきました。この人は大変な色好みで、どんな賤しい者であろうと姿形や気立てのよい女性と結婚したいと思い、まだ妻も持たずにおりました。何せ国司様ですから、大名たちが競って娘を差し出しましたが、全く気にもとめず、ずっと独身を通していました。
 その様子を見たある人が、
「どうしてそんなに寂しくお暮らしなのです」
と尋ねると、
「我ながらこうやっていてもおもしろくない。こんなことなら都へ帰ってしまいたい。ああ、どんな賤しい身分の者でもいいから、姿形の美しい女を妻にしたいものだ……」
と答えました。そこでその人は、
「昔も今も聞いたことがないような話がございます。鹿島の大宮司殿の下人で文正と申す者は、国中で一番の金持ちなのですが、光るように美しい娘を二人持っております。大名たちが競って求婚しても聞き入れず、そればかりか主人の大宮司殿が息子の嫁にしようといっても承知しません。全く文正ごときの者の娘とは思えない、まるで天女のように美しい娘です。親にもこの上なく大切に育てられて、帝のお妃にもと望みをかけ、それがかなわぬならば出家してしまおうとばかり言っているそうです。大宮司殿にお命じになってその娘をお召しになってはいかがですか」
とすすめました。道茂はそれを聞いて、もう望みがかなったかのように喜び、
「今までそんなことは知らなかった。首尾よくいけば、お礼にどこでも好きな領地を進上しよう」
と言って、とりあえず様々な贈り物を与えました。
 道茂はすぐに大宮司殿を呼び出して、世間話のついでのようなふりをして、
「この国は広いところだと思っていたのだが、実際に来てみるとひどい田舎だなあ。気に入るような女でもいようかと多くの女を出入りさせたが、全く見つからん。そうそう、貴殿の下人の中に、光るように美しい娘を二人持っている者がおるそうだな。貴殿の力でその娘を連れてきてはくれまいか。うまく事が運べば、そのお礼に国司の役を譲ろうではないか」
と持ちかけました。大宮司殿は、
「仰せはたしかに承りました。そういう者がたしかにおりますが、全く変わった考え方をする娘たちで、人の求婚も親の教訓も一切聞き入れないと聞いております。しかしせっかくの仰せですから、ともかく伝えてみましょう」
と答えて下がりました。
 大宮司殿は文正を呼び、
「喜べ、いい話だ。お前の娘の美しさを国司殿がお聞きになって、奥方にしようとの仰せだ。なんとももったいないお話だ。しかし女の子というものはいいものだな。わしが国司になったあかつきには、お前を代官にしてやろう。まるで生まれ変わったような出世ぶりではないか」
と道茂の意向を伝えました。文正は大変喜んで、
「かしこまりましただ。親の言うことを聞かねえ娘どもでごぜえますから、今度もどげんかとは思いますが、田舎大名はいやじゃとしても、国司殿は都の方でごぜえますから、大丈夫でごぜえましょう」
と答えました。
 さて急いで家に帰って、門口から大騒ぎです。
「めでたや、めでたや。女の子などいらぬと思っていたが、全くわからねえもんだ、わしが国司殿の舅になろうとはな……。いやあ、めでたや、めでたや。さあさあ皆の者、早く嫁入りの仕度をするだ」
と気の早いことに大喜びしています。
 文正は女房に、
「こういうことを男親のわしから言うのも、どんなもんか……。お前は母親なんじゃから、うめえ具合に話してくれろ」
と頼み、二人一緒に娘たちのところへ行きました。
「めでてえ話じゃ。都の身分の高い方が、国司としてこの国においでになっておる。その方が大宮司殿を通じて奥方にと申し込んでこられただ。お前たちの望み通りではねえか。さあさあ、早く嫁入りじたくをするだ」
と、実に機嫌良くにこにこして言いましたが、姫君たちはやはり承知しません。文正はがっかりして、
「なんでこげにええお話までいやがるんじゃ。これを断れば国司殿のご機嫌を損ねるし、大宮司殿にも勘当されて、わしの身もどうなるかしれたもんでねえ。わしらの子となったのもしかるべき前世からの縁じゃろうに、ことごとくわしの心に背くとは、情けなや」
と切々とかきくどきます。姫君たちは、
「このお話ばかりはお受けできません」
と、泣きながら言うばかり。文正は納得できずに娘たちをさとします。けれども、
「お父上はそうおっしゃいますが、国中の人々からの求婚をはねつけておきながら、国司殿の仰せであるからといって簡単に承知いたしましたならば、大宮司殿とて『あんな高望みをしていたから、こちらからの求婚を断ってきたのだな』と、よい気持ちはなさいますまい。結局はお父上のためにもよくないことでございます。これほど申し上げてもお聞き入れ下さらないとは……」
と涙を流します。その可憐な姿を見てしまっては、親でなくともどうして無理が言えましょうか。たとえこの娘たちのために罰せられたとしても、これほどいやがっているのなら仕方ないと、大宮司殿のもとへ参上しました。
「娘どもは、『決して人の妻になる気はありません。もしその気があるのでしたら、大宮司殿の仰せに従ったことでしょうに。この無常の世の中では、ただただ出家して後の世を願いとうございます。もし無理にでもとおっしゃるなら、海に身を投げてしまいましょう』と申しますだ。国司殿にお伝えくだせえ」
 大宮司殿もがっかりして、国司殿のもとへ参上しました。
「この文正の娘というのはどうも変わった娘でして、この浮き世で世間並みの暮らしをしようをは思っていないようです。ですから結婚などは死んでもいやだと申して、国中の求婚をすべてはねつけて独身を通しているやっかいな者たちでございます。私の手には負えません。お許し下さいませ」
と申し上げると、もうすぐ娘に会えると楽しみにしていた国司殿は
「今となっては甲斐のないこと。帰って広い都で理想の女性をさがすことにしよう」
と急いで帰洛しました。

***

 関白殿下の御所に参上すると、ちょうど国々の国司たちが集まって土産話に花を咲かせているところでした。この道茂も、
「いろいろな国がある中で、常陸の国ほど不思議でめずらしい国はありません」
と話しはじめました。それを殿下のご子息、二位の中将殿が耳ざとく聞きつけ、
「ほほう、それはどういうことかね」
と関心を示します。そこで道茂は、文正という果報者のこと、次々に国中からの求婚をはねつける美しい娘たちのことなどを詳しく語りました。道茂自身も未練たっぷりな様子で涙ぐんでいます。

 中将殿はつくづくとお聞きになって、たちまち文正の娘への恋心を抱くようになりました。都の貴族たちが我も我もと娘を差し出しても、全く気にもとめません。身分が高く美しい女性にも見向きもしません。前世からの約束事でもあったのでしょうか、文正の娘のことを聞いてからは、そのことが気にかかって仕方ありません。どうしたらよいだろうかと思い悩むうちに、とうとう病気になってしまいました。中将殿の両親はあわてふためき、あちこちのお寺で病気平癒の祈祷をはじめさせます。その効果もあらわれないまま、秋になりました。
 八月十五夜の月が明るく輝いているころ、若い貴公子たちが集まって、中将殿をおなぐさめしようと、琴・琵琶・笙の笛などを合奏していました。そんな中でも中将殿は、

 月見ればやらぬかたなく悲しきに とぶらふ人のなどなかるらん
 (月を見るとどうしようもなく悲しいのにどうして私にはその悲しさのわけを尋ねてくれる人もいないのだ)

と歌を詠み、袖を顔に当てて、さりげない様子をつくろっています。
 

【中将殿をおなぐさめしようと開かれた管絃の宴。でも中将殿は月を見て物思いにふけるばかり。】
【中将殿をおなぐさめしようと開かれた管絃の宴。でも中将殿は月を見て物思いにふけるばかり。】


 その思いにたえかねた様子を、兵衛佐殿がめざとくみつけました。
「近頃中将殿ご不例の由をうけたまりながら、事情は聞いていなかったが、どうも人知れず辛い思いをなさっているようだ。相談できる人もいらっしゃらないようだ。どうして今まで気付かなかったのだろう」
と、親しい三人ほどで中将殿の御前に参上しました。
「中将殿の悩んでいらっしゃるご様子を拝見するに、ただ事とは思えません。どのようなことであれ、私たちに遠慮なさることはありません。ただお悩みをお聞かせ下さい。男同士の約束です。決して他言はいたしませんから」
とそれぞれ申します。中将殿は人が疑うほど自分の悩みは外にあらわれているのかと驚き、どうしたらよいのかわからず、つらさも身にしみて、涙を流しました。
「そこまで見抜かれているのならば、今さら隠し事はすまい。実は、春のころに衛府の蔵人道茂が語った文正の娘のことが頭を離れないのだ。人をやって様子をうかがわせるにしても、そんな賤しい者をと非難されるのもつらい。どうにもならない恋に焦がれて、もう生きていられそうもない」
と思いを押さえかねている様子は、見ている兵衛佐たちの袖まで涙でぬれるような気がするほどです。それぞれに涙を流し、
「それならば簡単でございます。お嘆きなさいますな。たしかに、仰せを下されてお召しになればすむことではございますが、もし万が一、実際に会ってみて恋が冷めるようなことになったら、外聞も悪く、女のためにも気の毒なことでございます。昔からこういう時にはどうするか決まっております。常陸へ下向なさいませ。われわれもお供いたします」
と申し上げました。中将殿の喜びは言うまでもありません。早速出発することになりました。
 

【管絃の遊びのついでに兵衛佐たちは中将殿の恋の悩みを聞き出しました。中将殿は兵衛佐たちと一緒に常陸に下ることに決めました。】

【管絃の遊びのついでに兵衛佐たちは中将殿の恋の悩みを聞き出しました。中将殿は兵衛佐たちと一緒に常陸に下ることに決めました。】


 けれども、中将殿をはじめお供をする貴公子たちも、都の中でさえ際だって美しい方々です。それが常陸という田舎へ下るのですから、このままではどうしても目立ちすぎです。変装したところで、山伏姿では人里に交わることもできません。あれこれ考えた末に、商人に身をやつすことにしました。これなら簡単に文正の家に近づくことができるでしょう。そこで商品にする品々を千駄箱に入れて、いざ下向ということになりました。
 中将殿は、出発前に両親に一度顔をお見せしようと思い、二人の御前に参上しました。このごろ自分の部屋に籠もりきりだった中将殿がやってきたのですから、二人とも大喜びです。けれども、中将殿の方は旅の決意を隠してのことですから、自分が旅立った後、両親がどれほど嘆くことかと思うと、つい涙ぐんでしまいます。その様子を見て両親は心配になりました。

「一体何をそんなに悩んでいるのだ。私が生きている間はどんなことであってもお前の思いどおりにしてやろうと思っているのに、どうしていつもいつもそんなに辛そうにしているのか。かたじけなくも帝までお前の官位を上げてやろうと仰せなのに、当の本人がこのように悩んでばかりなので、しばらくお待ちいただいているというのに……」
と、父上も母上も涙ぐんでいます。中将殿はたまらなくなり、あふれ出る涙をまぎらわしながら、さりげなく席を立って出ていこうとしました。その後ろ姿を見送る父上は、
「お前の顔はいくら見ても見飽きることがない。いつでも気軽に顔を見せておくれ」
と声をかけます。中将殿はもう一度振り返り、二人の顔を見たいと思いましたが、別れの悲しさに取り乱してしまっては二人が怪しむであろうとぐっとこらえ、そのまま自分の部屋へ戻りました。
 

【中将殿は両親に挨拶にやってきます。口には出しませんが心の奥底には出発の決意が秘められています。押さえようとしてもつい涙ぐんでしまいます。】
【中将殿は両親に挨拶にやってきます。口には出しませんが心の奥底には出発の決意が秘められています。押さえようとしてもつい涙ぐんでしまいます。】


「父上も母上も、毎日会っていても足りないくらい自分をかわいがって下さっているのに、私が遠い国へ旅立ってしまったら、どれほどお嘆きになることか……。無事に事が成就したら帰ってくるのだから、それまでの形見に」
と、柱に歌を書き付けました。

 年経ると忘るるまでも真木柱 面変はりすな今帰り来ん
 (私のことを忘れてしまうくらいに長い年月が過ぎても変わらずにいておくれ 私はきっと帰ってくるから 真木柱よ)
 

【再び都へ帰ってくるまでの形見と思って柱に歌を書き付ける中将殿。】
【再び都へ帰ってくるまでの形見と思って柱に歌を書き付ける中将殿。】

 

 夜も明けたので着替えようとして、

 逢ふまでの形見とてこそ脱ぎ置くに 変はれる袖と思ふなよ君
 (また会うまでの形見と思ってこの衣を脱いで置いて行くのだから 心変わりしたのだと思って下さいますな 父上よ 母上よ)

と詠みます。
 着慣れない白い直垂に藁靴をはいて変装します。中将殿は十八歳、式部大夫二十歳、藤右馬助二十一歳、兵衛佐二十五歳でした。九月十日すぎに都を発ち、常陸国を目指しました。

 旅を続けるうち、三河の国につきました。都のことがなつかしく思い出されます。慣れない旅のせいで美しい足が血で真っ赤になっているのをかばいながら、夜が明けるとすぐ出発することになっていました。するとその時、どこからともなく七十歳くらいの老人が山の中に現れ、言いました。
「おのおの方は何者じゃ」
「都の商人でございます。常陸の国へ物売りにまいります」
「商人と名乗ったところで、まことの商人ではあるまい。このごろ都で名高い関白殿のご子息、二位の中将殿であろう。残りの三人は兵衛佐、藤右馬助、式部大夫であろう。恋の道に迷って下向するところとみゆる。何がともあれ、この冬には恋しい女人に必ず会わせてしんぜよう。都を出発した日から、中将殿の頭上には紫の雲がたなびいておる。この翁にはよくみえるぞよ」
 中将殿たちは少し薄気味悪く思いながらも、恋しい人と会わせてくれるというので喜んで、小袖を一かさね取り出して老人に与えました。すると老人は、
「われこそはかの有名な見通しの尉(じょう)なるぞ」
と言うが早いか、かき消すように消えてしまいました。その後は頼もしく思い、足の痛さも忘れて常陸へと急ぎました。
 

【見通しの尉(じょう)に出会う中将殿たち一行。「中将殿は必ずや恋する女人と結ばれるであろう」という予言に中将殿は力を得ます。】
【見通しの尉(じょう)に出会う中将殿たち一行。「中将殿は必ずや恋する女人と結ばれるであろう」という予言に中将殿は力を得ます。】


 そのころ都では、中将殿がいなくなったというので、大騒ぎになっていました。内裏をはじめ、心あたりはすべてさがしてみましたが、どこにも見あたりません。中将殿の両親の狂乱ぶりは言うまでもありません。
「つねづね沈んでいたのは、一体何を悩んでいたのか」
と思って、中将殿の部屋へ行ってみると、装束はそっくりそのまま置いてあります。中将殿がいつももたれていたそばの柱には、「きっと帰ってくる」と書いてあります。それを見て少しほっとしたとはいえ、やはりあらゆる手を尽くしてさがし求めました。
 そうこうしているうちに、中将殿は常陸に到着しました。まず鹿島の大明神にお参りして、
「願わくば文正の娘にお引き合わせを」
と、一晩中お祈りを捧げました。夜が明けて出発し、ある家で文正の屋敷を尋ねると、そこの主人が案内してくれました。
 文正の屋敷の有様を見ると、その立派なことといったら。「こんな田舎にもこれほど立派な屋敷があるのか……」と、ぼうぜんと立ちつくしていました。さて、どうやって姫君に近づけばよいのやら。
 そこへ、屋敷の中から一人の侍女が出てきました。
「どちらさまですか」
「都から来た商人でございます」
「それならお取り次ぎいたしましょう」
 中将殿は喜んで、侍女について屋敷へ入って行きました。
 

【商人に変装した中将殿たちは、うまく文正の屋敷に入り込むことができました。】
【商人に変装した中将殿たちは、うまく文正の屋敷に入り込むことができました。】


 中将殿たちは、おそろいの装束に千駄箱を背負い、扇をかざして、おもしろい売り口上を述べました。自分の恋心をちらりちらりとのぞかせながら、めずらしい品々を並べてみせました。しかもその声は、極楽に住む迦陵頻伽(かりょうびんが)という鳥のように美しいのです。
 

【中将殿たちは聞いたこともないような美しい声でおもしろく物を売ってみせます。文正の屋敷の人はみんな夢中で聞いています。】
【中将殿たちは聞いたこともないような美しい声でおもしろく物を売ってみせます。文正の屋敷の人はみんな夢中で聞いています。】

 

 文正の屋敷には何万人という人々が仕えていましたが、みな田舎育ちですので、中将殿の言葉の意味に気付く者はおりません。ただその中で、一人の侍女だけは違いました。この侍女は都で育った人で、和歌に詳しく容姿も美しく、気立てもよかったので、姫君たちの世話役としてやとわれていたのでした。
「この商人は、見た目といい、扇の扱い方や売り口上といい、まったくただ者でないわ。まぎれもなく、都の貴公子のふるまいだわ。さては、あの姫君にふられた国司が、思いあまって都で噂話でもしたのね。それをお聞きになった若い貴公子が、『そのような遠い田舎では、使いの者をやっても埒があかないだろう』とお考えになって、自ら身をやつしておいでになったということかしら」
と、一人思いめぐらしておりました。
 使用人たちが文正に申し上げました。
「今の今まで、こんなにおもしろいことは聞いたことがありません。お殿様もおいでになってお聞きになってはいかが」
 文正が妻戸を開けて聞いてみると、なるほどたいそうおもしろいではありませんか。
「のうのう、お前さん方は一体どこのお人じゃ。なんともおもしろい売り声じゃわい。も一度売ってみせてくれろ。聞いておるだ」
 中将殿たちは目くばせして、
「これこそが例の文正のようだ。おもしろく売ってみせてやろう」
 と思い、またさっきと同じように売ってみせました。それを聞くとなんともおもしろく、聞き飽きないので、さらに何度も繰り返し売らせました。文正は、
「こいつらをここに泊まらせて、物売りをさせて聞いていよう」
と思いつきました。
「みなの衆、お泊まりはどこじゃ」
「こちらについてからまずこのお屋敷にうかがいましたので、まだ宿は決めておりません」
「それならここへおらしゃれ。宿を貸してしんぜるだ。商品は、わしがなんぼでも引き受けるだ」
と喜んで申し出ましたので、中将殿たちも願ってもないことと思いました。

 さて、屋敷の中へ招き入れて、まず足を洗う湯を用意させますと、藤右馬助が中将殿の足を洗ってさし上げ、兵衛佐はやわらかい手ぬぐいを取り出して手をふいてさし上げました。中将殿は、春からずっと恋に悩んでいらっしゃる上に、身をやつしていらっしゃるので、まるで影のようにやせおとろえておられます。文正の屋敷の者たちは、この様子を見て、
「どうやら、千駄箱を持っていないやせた男が主人のようだ。旅の疲れでやつれてはいるが、風格があって姿形も立派だし、言葉の端々に優雅なところがある。まるで昔の業平や光源氏のようだ。なんとなく物思いに沈んでいるような気はするが……」
 「おかしなこと、お殿様が大事にしていらっしゃるたらいに足を入れて洗うと、もう一人がきれいな布を取り出してふいているわ。一体なにさまのつもりかしら。ばかみたい」
と笑いました。
 

【中将殿が藤右馬助たちに足を洗ってもらっています。都の貴公子らしい白い足が恋煩いと長旅のせいですっかりやせ細ってしまっています。事情を知らない文正の屋敷の者たちはなんと大げさな、と笑いました。】
【中将殿が藤右馬助たちに足を洗ってもらっています。都の貴公子らしい白い足が恋煩いと長旅のせいですっかりやせ細ってしまっています。事情を知らない文正の屋敷の者たちはなんと大げさな、と笑いました。】


 文正は、
「都の商人殿は、立派なお人たちじゃ。恥ずかしくねえように、飯をきちんと用意してさし上げるだ」
と命じたので、飯がきちんと用意され、高坏におかずもたくさん盛って、みなに同じように出されました。お供の人々は中将殿と同じ扱いではおそれ多くて、自分たちの分は高坏から下ろして、まず中将殿のお給仕をして、かしこまっていました。屋敷の者たちはそれを見て、またあざ笑いました。
「都の商人とはおかしなものだ。まずやせた男に物を食べさせて、ほかの者はうつむくようにしている」
「食べ慣れないのかねえ、自分の分を全部高坏から下ろして食べているよ。きたないこと。声や姿はあんなにきれいなのにねえ」

 今度は文正がやってきて、中将殿たちにお酒をすすめます。たくさんのお酒と肴をそろえて、酒盛りをはじめました。文正は、
「まず主から、というでなあ」
と言って、まず自分が三口飲んでから、中将殿におすすめします。中将殿は飲まないのも不自然だと思い、仕方なくお飲みになりましたが、お供の人々はあまりの無礼に気が遠くなりそうでした。
「ほんとうに、恋の道ほど悲しいものはないのだなあ。誰かが中将殿より先に盃を取るなんて、都では考えられないことだ」
と、それぞれ涙を流しています。中将殿もそれを見て、
「つまらないことをしてしまった」
と後悔なさいました。
 

【文正がやってきて酒盛りが始まりました。田舎者の文正のことですから、中将殿の正体はおろか、都の礼儀作法など知るはずもありません。お客様よりも先に盃を飲み干しました。都では考えられないことと、お供の人々は唖然としています。】
【文正がやってきて酒盛りが始まりました。田舎者の文正のことですから、中将殿の正体はおろか、都の礼儀作法など知るはずもありません。お客様よりも先に盃を飲み干しました。都では考えられないことと、お供の人々は唖然としています。】


 さて文正は、酒がまわるにつれて、ぺらぺらとしゃべり出しました。
「この文正は賤しい者じゃがの、最愛の娘を二人、鹿島の大明神より授かって、主人のように大事にしておりますだ。姿形をはじめ、それはもう、何につけてもようでけた娘どもじゃが、ただ一つだけ欠点がごぜえます。どえらい男ぎらいでの、国中の大名たちがわれもわれもと言い寄っても断るし、わがあるじ大宮司殿が息子の嫁にと言わしゃっても聞き入れねえし、国司殿がいろいろ言わしゃってもすげなくはねつけてしもうただ。あれほど美しいものを、もったいねえことじゃ。ただ、都になんとかといわしゃる貴公子様なら結婚してもええと、かようなことばっかり申しますによって、もうどうにも困り果てて、手を焼いておりますだ。まあそんなわけで、娘どものところには美しい侍女をそろえておるでの、もしお相手をご所望ならば、十人でも二十人でも選んでしんぜるだ。しばらくはここにゆっくりおらしゃって、お楽しみくだせえ」
 中将殿をはじめ、みなおかしく思いながら聞いておりました。

***

 さてその後、中将殿は、なんともいえず美しい品物に硯をそえて、姫君たちのもとへ遣わしました。姫君たちは、今までたくさんの宝物を見慣れていましたが、これほど美しいものは見たことがありません。
「なんとめずらしい」
と引き寄せてみると、硯の中に小さな小さな紅葉の色の手紙が入っていました。

 君ゆゑに恋路に迷ふもみぢ葉の 色の深さをいかで知らせん
 (あなたのために恋の道に迷っている私は、悲しみのあまり血の涙を流しています その涙に染まった紅葉がどんなに深い色をしているか、なんとかして知っていただきたいものです)

という歌が書いてあります。墨の具合や筆の流れるような跡など、今まで見たことがないほどすばらしく思われます。長年の間、方々から寄せられた恋文を見ても心ひかれるものは一つとしてなかったのに、この手紙にはすっかり魅了されてしまいました。
 姉君がその硯を自分のものにしてしまったので、妹君がうらやましがりました。文正はそれを聞いて中将殿のもとへ行き、戸を広く開けて立ったまま申しました。
「この文正めには娘が二人おりますだ。さっき下された手箱は姉娘が自分のものにしてしもうたもんで、妹娘がうらやましがっておりますのじゃ。どうせじゃからもうひとつ下さらんか。金はいくらでも出すでの」
 中将殿はもともとそのつもりで、まずは姉君にと思ってひと揃い遣わしたのですから、今度も姉君のものにまさるとも劣らぬきれいな品物を妹君のもとに届けました。文正は大変喜んで、
「退屈しのぎに、屋敷の西にある仏堂へお参りしてはどうかの」
とすすめました。

 そこで中将殿たちが仏堂へ行ってご覧になると、こういうところで見るせいか、都にたくさんある立派なお寺もたいしたことがないように思われるほど、まばゆいばかりに尊いお堂なのでした。いろいろな楽器もそろえて置いてあります。中将殿は都を発ってからというもの、こうした楽器に手を触れることもなかったので、なつかしく思って琵琶を手に取り上手にお弾きになりました。兵衛佐は琴を弾き、藤右馬助は笙の笛を吹きます。中でも式部大輔の横笛は、天まで響くかと思われるほど上手でした。
 それを聞きつけた文正の家の侍女たちは、
「お殿様がつまらない都の商人なんかをお堂へ入れなさるからいけないんでございますよ。壁などを破ってでもいるんでしょうかね、騒がしい音を立てておりますよ」
と告げ口しました。文正は大変怒って、
「けしからん。たしかに仏堂にお参りせよとはすすめたが、まだ戻ってこねえとは。おめえたち、行って懲らしめて来い」
と命じました。
 

【中将殿たちはお堂で琵琶や琴などを演奏しはじめました。管絃の演奏など初めて聞く文正の家来たちは呆気にとられて聞き惚れています。】
【中将殿たちはお堂で琵琶や琴などを演奏しはじめました。管絃の演奏など初めて聞く文正の家来たちは呆気にとられて聞き惚れています。】


 そこでその侍女は五十人ほどの侍女を引き連れてお堂へ行きましたが、中将殿たちの演奏があまりに尊く思われたため、庭に座り込んで聞き惚れてしまいまいした。彼女たちの帰りが遅いので残っていた侍女たちも十人、二十人と連れだって行くうちに、侍女たちはみな残らず行ってしまいました。 
 

「あいつらは何をしておるのじゃ」
と思い、自分でお堂に行ってみると二、三百人もの人がぎっしりと並んでいます。文正は怒りに目をむいて、
「おめえらはここで何をしてるだ」
と怒鳴りつけ、杖で打とうとしましたが、その時音楽のしらべが聞こえてきました。文正は握っていた杖も投げ捨てて、あっけにとられてしまいました。
 

【侍女たちが帰ってこないのを叱りつけようと杖を握りしめ、お堂に向かう文正。しかしこのあと文正本人もまた演奏に聴き入ってしまうことになります。】
【侍女たちが帰ってこないのを叱りつけようと杖を握りしめ、お堂に向かう文正。しかしこのあと文正本人もまた演奏に聴き入ってしまうことになります。】



■ 下巻 ■

 文正は音楽を聞いてぞっと鳥肌が立ち、魂を抜かれるほど感動したので、感涙を押さえかねていました。
「お前さまがたは、なんでこげにすばらしい音楽を今まで聴かせてくれなかっただか。ああ、わしがもう少し若かったら、お前さまがたにならって、こげに風雅なことも教えてもらうんだがなぁ。極楽浄土っちゅうのはこんなところなのかのう。何だかありがてえ気がするだ。ありがたや、ありがたや」
と言って、いろいろな宝物を出してきて中将殿たちに差し上げました。中将殿たちは、
「前もって婿への引き出物をいただいたということだな」
と笑いました。断るのもかえって不自然かと思い、もらっておくことにしました。
 さて姉君は、先日中将殿からいただいた手紙のことが秘かに気になっていました。けれども、
「こちらから言葉をかけるつてはないし、手紙の返事をしようと思っても、筆跡というのは人の身分次第というわけでもないから、もしかするとあの国司以下の人かもしれないわ。そうだとしたら笑いものですもの」
と、いろいろ思いあぐねておりました。
 

【中将殿からの文を眺めながら姉君はあれこれともの思いにふけっています。「何だかとても心がひかれるわ。でもあんな商人ふぜいをと笑いものにされるかもしれない……。」】
【中将殿からの文を眺めながら姉君はあれこれともの思いにふけっています。「何だかとても心がひかれるわ。でもあんな商人ふぜいをと笑いものにされるかもしれない……。」】


 中将殿たちが音楽を演奏したということを聞きつけて、姉君は母親に、
「何よりも琴や琵琶の演奏を聞きたいの。聞くところによると、あの商人たちはずいぶん弾き慣れていて、すばらしい演奏をするそうですわね。なんとかして聞いてみたいわ」
と熱心に頼みました。母親ももっとも思い、文正に相談しますと、
「わしも姫君たちに聞かせたかっただ」
とすぐに二つ返事で承知して、中将殿たちのもとへ行き、
「お前さまがた、もういちど昨日みてえに演奏してもらえねえべか。わしが主人とも思って大事にしている者が聴きてえと申しておりますだ」
と申し上げ、中将殿は、
「ははあ、さては姫君のご所望か」
と思い、いつもよりも念入りに化粧し、身なりを整えてお堂へ行きました。姫君たちも今日は晴れの日とおめかししてやってきました。お供の侍女や下女たちまで着飾らせてお堂に入る様子は全く田舎の者とは思われず、奥ゆかしいことは言うまでもありません。ほのかによい香りもただよって、まるで都にいるような気がします。中将殿はすっかり上の空になって、簾を引き上げて中へ入りたいものだと気がはやるのでしたが、なんとか心をしずめて、いつもよりも心を込めてお弾きになりました。その音色はすばらしいことこの上ありません。
 

【中将殿は恋する姫君のためにいつもよりも心を込めて演奏します。御簾のむこうからは姫君が熱い視線を送っています。】
【中将殿は恋する姫君のためにいつもよりも心を込めて演奏します。御簾のむこうからは姫君が熱い視線を送っています。】


 他の人々はただおもしろいと思っているだけのことですが、姫君たちは自分も弾く楽器のことですので、そのすばらしさがよく理解できました。気高くもまた親しみやすい撥音は、並ぶものがないほどで、姫君たちはぞくぞくするほど感動し、後先のことも忘れてしまいそうでした。中将殿のお顔は世間並みであるはずもなく、気品と愛らしさに満ちています。中将殿は、
「ああ、姫君の姿が一目見たい。どんな風でもよいから吹いてほしいものだ」
と思い焦がれていましたが、それを仏もあわれに思われたのでしょうか、風がさっと簾を吹き上げたのです。その瞬間に中将殿と姉君の目が合いました。姉君の美しさは噂に聞いていた以上です。楊貴妃といえどもこれにはまさるまいと思われます。
 中将殿たちの演奏は天まで届くかと思われるほどすばらしく、門前につめかけて聞いている人々は、無風流な人でも涙を流さぬ人はありませんでした。まして姫君たちの心の内は言うまでもありません。
 演奏が終わると、人々はそれぞれ帰って行きました。姉君と中将殿はお互いに想いがつのり、いよいよ涙があふれるのでしたが、どうすればよいのかわかりません。

***

 さて、文正がまた中将殿たちに酒肴をすすめました。いつものようにまず自分の盃を取って飲みはじめてから、中将殿に差し上げます。
「わしに酒を下さるなら、ついでに音楽を聞かせてくれろ。いくら聞いても飽きねえだ」
と言うので、中将殿はこれも恋しい姫君の父と思えば親しみを感じて、
「おやすいこと」
と承知して演奏しました。文正は酔いにまかせて、
「いつぞやも言ったけんど、お気に召しませぬかのう、娘のところには器量よしの侍女がたくさんおりますでよ、いつでもお召しくだせえ。まだ言ってなかったべか、ここよりも北の方、ほれほれ、あっちの方におりますのじゃ」
と指さして、姫君の居所を教えてしまいました。中将殿たちは目配せをして、
「いいことを教えてくれた、文正殿よ」
と笑いました。
 中将殿はその夜は我慢できそうになかったので、皆が寝静まってから、こっそりと姫君のお部屋へ忍んで行かれました。姫君たちも昼間見た中将殿のお姿が胸からはなれないので、侍女たちが寝てしまってからも、格子を上げたまま月の明るい空を眺めつつ、姉妹いっしょに横になっていました。姉君が硯の下の手紙のことや、今日お堂で目が合ったことなどを隠さず話しますと、妹君も感慨深く聞いていました。

 中将殿は姉君に会いたいとの一心で、厳重な垣根を越えて姫君の部屋までやってきました。妹君もきっとあの方だろうと察して、奥の方へ身を隠しました。姉君は動転して、
「どうしてこんなに急にいらっしゃったのです。これまで多くの人からの求婚を断っておきながら、いくら立派な方とはいえ商人ふぜいと契りを結んだとあっては、父にも母にも合わせる顔がありません。世間の噂も悔しく恥ずかしいことでしょう」
とすげなくおっしゃいました。中将殿はもっともと思い、いつかは本当のことが知れるのだからと身分を明かし、衛府の蔵人が噂話をしたことから、恋い焦がれてきた胸の内を切々と語りました。姫君はそれを聞いて、もったいないどころではありません。神ならぬ身の悲しさ、そんなこととはつゆ知らず、父の文正の無礼な振る舞いをなんとお思いだろうと、今になって胸がつまるように思われます。けれども中将殿が心を尽くした甲斐あって、二人は互いに深く契りを結びました。
 

【とうとう中将殿は姉君と結ばれます。胸に秘めてきた恋心をかきくどき、正体を明かす中将殿。二人は将来を固く誓い合いました。】
【とうとう中将殿は姉君と結ばれます。胸に秘めてきた恋心をかきくどき、正体を明かす中将殿。二人は将来を固く誓い合いました。】


 秋の夜長といえども、あっという間に明けてしまいます。まだ十分でないのにと悲しく思われて、

 恋ひ恋ひてあひ見る夜半の短きは まだ睦言の尽きも果てぬに
 (ずっと恋い焦がれていたあなたにやっとお会いできた夜のなんと短いことか。まだ睦言も尽きないうちに明けてしまいましたよ)

と歌を詠みかけると、姫君も顔を背けながら、

 数ならぬ身には短き夜半ならし さてしも知らぬしののめの道
 (賤しい私には、今宵が短かったかどうかすらわからないうちに、夜が明けてしまいましたよ)

とさりげなく言う様子は、全く文正の娘にはもったいないほどです。中将殿は都の高貴な女性たちを残らずご覧になっているのですが、誰でも必ず不満なところがあるものでした。しかしこの姫君は、全く欠点が見つからず、愛しさが募るばかりです。
 姫君が恥ずかしく思っているようなので、中将殿は部屋を出て行きました。手紙を遣わしたいと思いましたが、もうしばらく秘密にしておこうと思って我慢します。日が暮れると例の道を通ってこっそりと通って行きました。何度も逢瀬を重ねるにつれ、ますます愛情が深まってゆき、いつまでもどこまでも夫婦仲良く一緒にいようと、固く約束を交わすのでした。
 こうして逢瀬を重ねるうちに、秘密にしようとしてもどうしても人に知られてしまいます。あちこちで噂になっているのを母親が聞きつけて、姫君をしかりました。

「まったく、女の子なんて持つものではなかったわ。あれほど立派な方々が是非とも嫁にほしいとお望みだったのを、ことごとくはねつけていたから、何かきっと思うところがあるのだろうと思っていたのだよ。さだめしもっと高貴な人の妻にでもなるつもりかと思っていたのに、よりによってあんな商人ごときを婿にするなんて、くやしいったらありゃしない。この国の人たちに知られる前に、商人を追い出してしまいましょう」
 文正は何のことだか訳がわかりません。よくよく聞いてみると、
「姉君がろくでもない人を婿にしたのが悔しいのです。商人も姉君も二人とも出て行きなさい!」
と怒っています。
「まさかそんなことはあるめえ。お前の聞き違いだべ。おおかた、おつきの侍女のもとにでも通っているのじゃろうて。はっきり確かめたわけでもねえのに、めったなことを言うでねえだ」
「どうしてはっきりしていないことを父親の前で言ったりするものですか。まったく、女の子なんて持つものじゃないわ。大名たちの求婚を断って商人ふぜいを婿にしたといって、人に笑われるのが悔しいったらありゃしない。都の商人なんて会わせるんじゃなかったわ。もしもこのことが大宮司殿のお耳に入ったら、きっとご不快に思われるに決まってるわ。早く商人もろとも追い出してくださいな」
 

【文正夫婦は姉君が商人と結ばれたことを知り、あわてます。けれどもしばらくはそっとしておこうということになりました。】
【文正夫婦は姉君が商人と結ばれたことを知り、あわてます。けれどもしばらくはそっとしておこうということになりました。】


 文正はよくよく考えて、
 文正「これもさだめなのじゃろうて。そげに悪いことと思うでない。第一あの男は、商人と思うから賤しくもみえようが、男のわしから見ても感じがええし、なんだか親しみやすい気がするだ。あの男の演奏を聞く時は、まるで極楽におる気分じゃ。それにどんなに見ていても飽きねえのが娘というものじゃ。たとえ片時でも、なんで追い出すなんてことができるべか。ただしらねえふりをしているだ。召使いたちにはよくよく口止めするのじゃ。せめて大宮司殿などの耳に入るまではそっとしておこうでねえか」
と言います。
「私は女親だからこそ、なおさら悔しいのです。人に知られないでほしいと思っても、思いがけないところからばれるものです。だから他の人の口からお耳に入れるよりはと思って私の口から申し上げたのに、ああ言われてしまえばどうしようもない」
とあきらめました。

***

 さて大宮司殿は、文正が都の商人たちを世話していて、管絃を演奏させて楽しんでいるようだと聞いて、文正のもとに使いを遣わしました。
「すばらしい演奏をする者がお前のもとにいるというのは本当か。お堂で演奏させなさい。今日聞きに行こう」
 文正はかしこまって承知し、商人たちのもとへ行きました。けれども姉君のこともあるので、気恥ずかしくて目をまともに見られません。
「今日大宮司殿がおいでになって、演奏を聴きてえとの仰せじゃ。いつもよりも格別に心して演奏してくれろ」
と言うので、中将殿たちも承諾しました。
 さて、都にいた時のように念入りに準備します。化粧道具や衣装などは持ってきていたので、みな着飾ってお堂へ参上します。文正の家の者たちは身分の上下にかかわらずみな集まって、
「商人はどこへ行った。これは誰だ。神様や仏様が現れたようだねえ」
と驚いています。文正も、
「たとえどげな者であろうと、こげにすばらしい人を、なんで粗略に扱ったりできようか。大宮司殿さえお許し下さったら、他の者がなんと言おうが、是非とも婿にしてえもんじゃ」
と、商人をつくづくとみまもりながら心の中で思いました。
 そうこうするうちに、文正の仏堂の上に紫色の雲がたなびき、この世のものとも思えぬ香りがただよってきました。神様や仏様も中将殿たちの演奏に感激なさったのにちがいありません。
 大宮司殿は息子たちを連れて、自らは輿に乗ってやってきました。お堂の正面をふと見たとたんに、中将殿と目が合いました。大宮司殿は輿から転げ落ちて、
「これは何としたこと、夢でも見ているのだろうか。関白殿のご子息、二位の中将殿が行方不明だと、あちこちの山々、寺々、国々をくまなくさがせとの仰せを被っていたが、よもやこの国においでとは!それを知らずにいたとはなんと情けないことだ……」
と、驚きのあまり、そのまま立ち上がることもできません。
 文正は主人が輿から落ちるのを見て、大慌てで主人のもとへ駆けつけました。

 その時兵衛佐が出てきて、
「大宮司さだみち、近う寄れ」
と大宮司殿に命じます。文正は肝をつぶして、急いで自分の家に帰ります。
「ああ、なんてこった。都の商人なんて、会わすもんじゃねえと言ったのに。よりによって、おそれ多くも大宮司殿を呼び捨てとは。気でも狂っただべか。ああ、きっと大宮司殿はかんかんにちげえねえ。おしかりをうけるにちげえねえだ」
 そのうち、女童たちが訳もわからずに、
「中将殿ですって」
「商人なんてうそだったのね」
「なんて高貴なお婿様」
と口々に騒ぎはじめました。文正はこれを聞いて不思議に思って、もう一度お堂へ行ってみました。見ると、大宮司殿は大庭にかしこまって、何やら仰せつけられています。文正に気付いた大宮司殿は、文正を近く呼び寄せました。
 

【「これは関白殿下の中将殿!」びっくりした大宮司殿は、輿から転げ落ちて庭にかしこまります。何がなんだかわからない文正。】
【「これは関白殿下の中将殿!」びっくりした大宮司殿は、輿から転げ落ちて庭にかしこまります。何がなんだかわからない文正。】


「お前は存じ上げなかったのか。こちらはかの有名な関白殿下のご子息にてあらせられるぞ。都では知らぬものとてないお方じゃぞ。はるばるとこのような田舎にまでお越しになったというのに、なんとご無礼なことをしてくれたものだ。普通ならお前などおそばにも寄れない高貴のお方なのだぞ。もったいないことだ」
 文正はわけがわからなくなってしまいました。何しろ商人ふぜいと思っていたのが、殿下の若様だったのですから。その若様を姉姫の婿に迎えたとあっては、めでたいことこの上ありません。また家に帰って大騒ぎです。
「関白殿下のお婿様が商人じゃ」
などと、うれしさのあまり、狂ったようにとんちんかんなことを言っていました。

 大宮司殿はあまりにおそれ多いので、御輿を遣わして自分の屋敷にお迎えしました。、あたりの大名たちに知らせたると、大名たちは直ちにこぞって参上しました。大宮司殿の屋敷のあたりは、行き違うこともできないほどのにぎわいです。
 大名たちはこのことを聞いて、
「このようなすばらしい幸運に恵まれる人だったから、われわれからの求婚をことわったのだなあ」
と口々に噂しました。
 

【中将殿は大宮司殿の屋敷に移りました。周辺の大名たちが次々と参上します。】
【中将殿は大宮司殿の屋敷に移りました。周辺の大名たちが次々と参上します。】


 中将殿はいつまでもこうしているわけにはいかないので、姉君を連れて上洛することにしました。大名たちはわれもわれもとお供を申し出たので、その数は一万余騎にもなりました。
 

【中将殿が上洛すると聞きつけて、お供しようとする大名たちが、四方八方から集まってきます。】
【中将殿が上洛すると聞きつけて、お供しようとする大名たちが、四方八方から集まってきます。】

 

 さて、文正の邸では女房たちが上洛の支度に大忙しです。
「姉君の世話をする侍女はたくさんおりますけれども、世話役をまかせられるような者がおりません。大宮司殿の奥方様を雇いとうございます」
と言い出しました。文正はもっともだと思い、大宮司殿のもとに参上します。
「おそれ多いことではごぜえますが、娘の世話役にふさわしい者がおりませんだ。ふさわしいお方がいらっしゃいましたら、例えば大宮司殿の奥方様のようにお美しくて教養もおありの方なら申し分ごぜえませんのですが、都までお供願えねえべか」
 大宮司殿は、
「文正の娘とはいえ、関白殿下の若君がお連れになるのだ。どうしてお供にまいらぬことがあろう」
と言って、奥方もろともにお供に参上することにしました。

 文正は喜んで家に帰り、女房に向かって、
「わしはとうとう主人を雇うまでになっただ。今度はお前の番だ。どうせなら目代様の奥方を雇うだ」
と言います。女房はそれならばということで、目代様のもとに参上します。
「すでにお聞き及びのことと思いますが、私どもの姫君が今度二位の中将殿の北の方になったのです。世話役として京までお供願えませぬか」
 目代様の奥方は、
「しかるべきご縁があって中将殿をお婿様にされるほどの方なのですから、仕方ありません。これも関白殿下の仰せと思ってお受けいたしましょう」
と承知しました。このように、あちこちから主人にあたる人をやとって娘のお供をさせることにしました。
 

【お供の人々もそろい、中将殿の上洛のお仕度はすっかり整いました。】
【お供の人々もそろい、中将殿の上洛のお仕度はすっかり整いました。】


 さて、このようにめでたいことだらけなのですが、文正夫婦にとって姉君との別れほど辛いことはありません。どれほど長く見ていても飽きることなく、たった一日離れていてもまるで千年もたったかのように感じられる最愛の娘です。いくらめでたいとはいえ、辛くないわけがありません。
 それでもこのままにしておくわけにはいきません。ずらりと並んだ蔵にぎっしりとつまった宝物を、今使わずしていつ使うのだとばかりに、惜しげもなく使います。輿を金銀玉で飾ります。その美しさは言葉ではあらわせないほどです。この国のものとは思えません。
 姉君の上洛の様子を一目見ようと集まってきた人々で、文正の家の前はごったがえしていました。姉君を美しく着飾らせて輿に乗せ、二人の主人とその奥方がお供します。そのほかにも選りすぐりの美しい女房たちを百人ほどお供させます。大宮司殿の奥方が大宮司殿もろともお供に参上したので、見物の人たちは驚き、文正の娘の果報を口々に噂しました。
 はるばると旅を続けて、三月上旬には都に到着しました。折しも春の盛りです。田舎に埋もれていた姫君の果報が花開いたのを祝うかのように、深山の桜も咲き誇っています。
 

【中将殿は姉君を連れて都へ向かいます。大勢のお供に金銀で飾った輿、なんとも華やかな行列です。】
【中将殿は姉君を連れて都へ向かいます。大勢のお供に金銀で飾った輿、なんとも華やかな行列です。】


 都に到着した中将殿は、まず両親に手紙を書きます。
「何となく世の中がつまらなくて都を旅立ってから半年の間、あちこちで修行をしておりました。そのうちたいした身分でない女性と縁あって結ばれ、ともに過ごすうち、三年も父上母上に行方もお知らせしないことになってしまいました。どれほど恨めしくお思いでしょう。それでももしお許しいただけますなら、参上してお目にかかりたいと思っております」
 これを見た父君の関白殿下は、現実のこととも思えません。
「どんな賤しい身分の者であっても、わが子が愛する女人ならば、どうしておろそかに思うことがあろうか。あの息子の心をとらえた女人がいたとはうれしいことだ。早く早く連れてまいれ」
と矢のような催促です。中将殿はこのお返事を詠んで、
「姫君とはさるべき縁があったとはいいながら、そのために父上母上には気の毒なことをしてしまったものだ。しかしそれも今となっては仕方ない。元気な姿をお目にかけよう。しかも姫君はどんな高貴の姫君にも劣らないすばらしい人なのだから」
と思い、すぐに姫君を母上に会わせることにしました。
 華やかな衣装に身を包み、歩く様子は上品で女らしく、お顔のあたりも高貴な感じがして、全く物怖じせず堂々としています。その玉のような美しさはあたりも輝くほどです。髪がはらはらとかかっている様子は、青柳が春風にゆれているよりも可憐です。歳は十四、五歳で、眉や額のあたりは気高くて品があり、月の光のようです。絵に描いたとしてもとても及ばないでしょう。

 母上も驚いて、
「私も多くの高貴な姫君を見てきましたが、これほど美しい人は初めてです。その昔、かの有名な光源氏が多くの奥方の中でも特に美しい紫の上、女三宮、明石の中宮に琵琶、琴を合奏させているところを、息子の夕霧がのぞき見して、それぞれを花にたとえたという話がありますが、その光源氏の奥方にだってどうして負けていましょうか。中将殿がお心をおかけになったのも無理はありません。この私も、ほんの一日もお会いしないではいられない気がするのですから。お目にかかっていると、世の中のいやなこともすべて忘れるような気がしますわ。どうしてこのようなすばらしい方が、文正のような賤しい者の娘に生まれたのでしょう。天人が空から降りてきたかのようです」
と、不思議がっています。父上もこのことを聞いて、
「男というものは、身分にかかわらず美しい女に心を奪われるものだ。わが子の心を射止めたのだから、この際女君の父母の身分などどうでもよい」
と、姫君を大切に扱います。

 

【都に戻った中将殿は、姉君と仲むつまじく暮らします。父上や母上も姉君を気に入ってくれました。】
【都に戻った中将殿は、姉君と仲むつまじく暮らします。父上や母上も姉君を気に入ってくれました。】

 

 大宮司殿は、中将殿を発見したごほうびに、常陸の国を賜りました。目代様の奥方も多くの所領をいただき、面目をほどこしました。
 宮中でも、中将殿が行方不明になってからは皆が嘆き悲しみ、まるで光が消えたかのようになっていましたから、中将殿が参内するとその喜びは大変なものです。帝も、
「行方不明の間は心配していたが、無事に帰ってきたとはうれしいことだ」
とおっしゃり、まもなく中納言に出世させました。
 その中納言殿が美しい姫君を奥方に迎えたという噂は世間でも評判になり、帝の耳にも入りました。帝が中納言殿に尋ねると、ことの起こりから今までにいたるいきさつをすべてご報告します。
「不思議なこともあるものよ。その妹君の方は、まろが妻に迎えよう」
と宣旨が下りました。すぐさま勅使が常陸に遣わされます。

 しかし文正は、そんなありがたい宣旨を受け取っても、うれしそうな様子もありません。
「姉君はどうしようもねえから中納言殿に差し上げたが、この上妹君までもとは……。わしの大事な娘二人と別れちまっては、悲しゅうて恋しゅうて、どうしようもねえ」
「かたじけなくも帝からの宣旨であるぞ。どうしてそんな返事ができようか。とにかく急いで娘を参内させよ」
「どれほどめでてえかしらねえが、娘恋しさはどうすることもできねえですだ。まだ娘を見たことのねえ帝様でさえ、娘にご執心でこんな宣旨を下さるくれえだ、まして親のわしはなおさらでごぜえます。片時だって離れては生きていけねえだ。姉君が恋しい時も妹君を見て慰められているだ。いくら宣旨だといっても、これだけは承知できねえだ」
 勅使は都へ上ると、その由を帝に伝えました。今度は、
「それならば父母もともに上洛させよ」
との宣旨です。文正夫婦は、妹君とともに立派な衣装を整えて上洛しました。けれども昔から、貴族でもない者が宮中に上がることなどありません。仕方がないので文正を宰相中将に任じました。それだけの果報者だからでしょうか、七十歳とはいえ五十歳くらいにしか見えません。
 

【妹君は帝に召されることになりました。文正夫婦も一緒に上洛することが許され、この上の喜びはありません。】
【妹君は帝に召されることになりました。文正夫婦も一緒に上洛することが許され、この上の喜びはありません。】


 妹君を大臣の娘ということにして、女御として参内させます。帝が妹君をご覧になると、全くこの世の人とも思えない美しさです。天人が舞い降りてきたか、あるいは仏菩薩が現れたかと思うほどです。深く契りを結ばれました。
 ついには妹君を皇后にとの宣旨が下されました。しかも若君、姫君も生まれ、帝の喜びは言うまでもありません。中納言殿も父君に職を譲られ、今は関白殿になりました。姉君は北の政所と呼ばれ、こちらも若君、姫君に恵まれ、幸せに暮らしました。
 

【中納言殿と姉君の間にはかわいい若君や姫君も生まれました。妹君もお后となり、文正一族は末永く栄えました、とさ。】
【中納言殿と姉君の間にはかわいい若君や姫君も生まれました。妹君もお后となり、文正一族は末永く栄えました、とさ。】

 

 昔から今にいたるまで、このようにめでたい例はないでしょう。文正夫婦はともに百歳まで長生きしました。夫婦の死後、后の宮、北の政所は二人であちこちにお寺を建て、両親の菩提を弔いました。二人とも百歳まで長生きし、その子供たちもそれそれ末永く栄えたということです。
 一体文正は、過去にどのようなよい行いを積んで、このようなめでたい果報者に生まれたのでしょうね。見る人も聞く人もうらやましがりました。どんな物語にも、初めから終わるまでの間には、恨めしいことや辛いことなどが何かしらあるものでございます。この文正の例のように、初めから終わりまでずっといやなことがなく、めでたづくしという例はめずらしいものです。だからこそこのお話は、世のめでたい例として語り継がれるのでしょう。
 これをお読みになった方々は、文正の幸運にあやかって、果報に恵まれ長生きし、後の世までも思いどおりになると言われます。恋の道もめでたく結ばれるにちがいありません。めでたし、めでたし。


■ 完 ■
 

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