[刀]銘 備州長船祐定

鎬(しのぎ)造庵棟、元巾に対して先幅を落した太刀姿の名残りがあり、反り深く中切先詰る。


鍛えは杢目に板目肌を交へ淡く映り心があり細かな地景を交へる。


反文は所謂複式互の目(ぐのめ)に金筋を交へ小沸がついている。帽子(切先の刃文)は乱れ込んで小さく返へる。表裏に棒樋に連れ樋を丸止めにする。


茎(なかご)は先栗尻、鑢目(ヤスリメ)は勝手下り目釘穴1ケ表裏に銘を振り分ける。


祐定と銘するものは古来40数名に及ぶものであるが世に知られるものは永正以後で俗名を彦兵衛と冠するものが最も古いとされているが、近年の研究では永正以前にも備州長船祐定と銘するものがあったと云われる。

本作は姿を見ると応永の太刀姿から永正以後の刀姿に移行する過程の姿をし古風であるので彦兵衛祐定の父に当る者か彦兵衛本人の手になるものと考へられる。
備前の長船は平安末期頃より続いた刀工集団の町であり、平安以後の戦闘様式の変化に応じて刀姿の変化が続き、永正頃になって刃文の形式が大きな互の目に小さな互の目や丁字を重ねた「複式互の目」と云われる焼刀が流行し、以後室町時代末期迄の長船物はおおむねこの形式のものが多く、また永正を界に太刀は無くなり刀姿のものとなる。
従って銘の位置が表裏逆になり本作では刀銘に切っている。


本作は姿の点では古風を残し、刃文は複式互の目を焼き、なかなかの名品ではあるが棟寄りに鍛え割れが発生し、樋と連れ樋でこれをかくしている点がおしまれる。

平野国臣  文政11年3月29日生

      元治元年7月20日没(1828-64)

福岡藩士 国学者


藩の普請方として江戸勤務後安政5年脱藩、上洛し尊皇攘夷派志士と交わる。安政の大獄を逃れて九州に行き西国志士の結集をはかる。文久二年再び上洛し挙兵を画策するが帰国の途中捕えられる。
翌年出獄して上洛。8月18日の政変で京都を追われ10月、沢宣嘉を奉じ但馬生野に挙兵したが捕えられ、京都六角獄で斬首された。
沢宣嘉は本作国臣所持刀を持って長州に落ちたと云ふ。


(文責:文化庁刀剣類登録審査委員 新井重熈 95. 5. 10)