レコードID
RB00013784
言語
日本語
タイトルヨミ
グンチュウ ニッキ
別タイトル
ローマ字タイトル: Gunchū nikki
英語タイトル: Campaign journal in Ten-no-zan
著者
久坂玄瑞(実甫、義助)自筆
参照形
久坂, 義助||クサカ, ギスケ||Kusaka, Gisuke
久坂, 玄瑞||クサカ, ゲンズイ||Kusaka, Genzui
久坂, 実甫||クサカ, ジツホ||Kusaka, Jitsuho
冊数
1
形態・版情報
写 巻子本・箱入
14(12×97)
写刊の別
写
内容記述
久坂玄瑞 これは元治1年(1864) 7月19日の禁門の変前後を記した、久坂の「義挙日記」の一部分である。久坂らは6月24日、淀川から山崎の天王山麓に上陸し、長州藩諸隊の部署を定め、27日陣地を築いた。久坂は禁門の変で負傷し、鷹司邸において自刄した。「六月十六日、富海より全軍乗舩。 / 廿一日、大坂ニ着す。 / 廿二日、福原太夫着船。 / 廿三日、来島政久先鋒、福原太夫引軍東上△夜九半時。真木保臣・久坂通武全軍乗舩。是時道傍観者、蟻集雜還、皆々長州様我々共之為、御苦勞なされ候と申す。米塩の直價なとも遽ニ減し候よし石山城の下を過れは、夜巳明△軍令并ニ此度之歎願書を、諸隊ニ観せしむ○宍翁の我等之為盡力一形ならす。 / 廿四日淀太夫松尾佐一郎(ここまでは英傑遺墨ー尊エ五貴に収む) / 廿七日○城山の陣屋を築く○児玉小六來報、今曉七時京邸壯士不残天龍寺ニ遷る。來翁鎮静として伏水より進發すと報す。乃遊撃軍中、力士隊を歸し、且人夫數十人を遣し、其小荷駄の運送を助く○甲斐翁圓明寺椙谷浄土谷を巡、窮民の疾苦を問ふ土民感激○寺忠・唯人等石清水參詣、二夜三日の御祈祷相願候。渡邉新三郎・岸十之允・澄川敬三參篭。大坂宍翁より書簡來、米塩其外運輸被致候。乃天王山ニ登す。義勇隊殘人數佐龜督して着す。是朝品川彌を大坂に遣し諸用を辨せしむ。 / 廿八日、寺忠・菊四郎等、石清水參。野唯人光明寺假請ニ行。義助從僕を遣し天龍寺ニ至る。佐々木男也、對藩之多田莊藏某一同來る、云々の談。囚藩松田正人も伏水まて參候よし、又是ハ直ニ天龍寺ニ參候よし、是時佐々木一同、武田二郎天龍寺ニ行。 / 真翁・田岡・宮田なとハ、城山の北間道をきりたつ。山寺柳谷圓明寺浄土谷等の道なり。義助本陣以北の間道をきりたつ。是日城山の陣屋成就、集義隊遷守。來翁より報あり、昨夜無滞着陣との事なり。淀より使者來る、石田英吉・長谷川哲三郎會す。小田原出張之儀申來る。郡山陣より使者來る、長谷川會す。是日京都兩町奉行へ當山滞在之儀申遣す。」(出典:平成6年度京都大学附属図書館公開展示会図録『吉田松陰とその同志』)
From 16th to 28th in June 1864, on the ship for Osaka, KUSAKA GENZUI (1834-1876)wrote this diary. It is a pricious document which tells the state of affairs at that time; in the same time, it could be his last writing.
注記
吉田松陰とその同志展
維新DBリスト:展示品34
附録等:付:日柳燕石跋文并七絶(慶応4)
備考:前半は「英傑遺墨」(尊エ-5貴)にあり
「二十七日の城山の陣屋を云々」
請求記号
尊/巻292/貴
登録番号
1799488
リストNO
展示品34
所蔵
京都大学附属図書館 Main Library, Kyoto University
コレクション
サブコレクション
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