宇津保物語(近衛文庫)
宇津保物語(近衛文庫)

近衛文庫は旧五摂家の筆頭である近衛家の旧蔵本である。明治32年本館が設立された時、近衛家伝世の典籍が寄託されることとなり、翌33年6月、篤麿は典籍1,219部10,029冊を本館に永久寄託した。これが第1回目の寄託である。大正4年大正天皇の御即位大典挙行に当り、二条城修理のため城中に保管されていた陽明文庫は東京の近衛邸内に移されたが、文庫中の典籍769部10,606冊が大正5年(1916)7月本館に搬入された。これが第2回の寄託である。

大正12年9月関東大震災に遭遇した篤麿公の嗣子故文麿公爵は、伝世資料の保全と利用を考慮し、本学三浦周行教授を通じて、その祖先の日記、記録等自家に最も関係深い文書、典籍以外の文献98,000点の追加寄託を懇請した。新村出館長は荒木寅三郎総長に文麿公の厚志を伝えた。総長は大学における国史国文学の教授ならびに研究に有力な資料を提供するものとして、文麿公の寄託願を快諾した。

以来山鹿誠之助司書官は井川定慶、藤直幹両嘱託等の協力を得て、寄託図書の整理に着手し、約7カ年の歳月を費して昭和6年一応整理を終り、目録編成を完了した。

近衛文庫は上代より江戸時代末期に至る近衛家歴代の日記、朝廷または公家に関する文書記録等の伝世の史料ならびに多数の珍籍稀書の収集であった。一度この文庫が公開されるや、学内外より文庫を訪れる者は極めて多かった。

しかし、近衛家にはこの文庫以外に国宝の道長筆の御堂関白記をはじめとして神楽歌譜、熊野懐紙等の貴重な古文書、典籍を含む、陽明世伝文庫が保管されていた。この貴重な陽明世伝文庫の万全を期し、また日本古文化の遺芳を永遠に後世に伝えることを念願した文麿公は、この目的のために財団法人陽明文庫を設立して、この古文化財を同文庫に寄贈することを決意した。公の計画の実現には多少の迂余曲折はあったが、昭和13年(1938)11月公の宿望はようやく実現されて、京都市右京区宇多野上ノ谷町1番地に財団法人陽明文庫の創設をみることができた。陽明文庫の完成を機として、公は本館に寄託中の近衛家本を新設の陽明文庫に収納して、近衛家伝世文献の分散を防ぎ、完全な近衛家本の一大集成をつくろうとした。

本館は公のこの趣旨に賛同して、昭和17年1月28日および19年12月20日の2回にわたり、近衛家本の永久寄託契約を解除して、公の熱望に答え、陽明文庫の完成に協力した。ここにおいて明治33年(1900)以来本館に寄託されていた近衛家本は、昭和17年(1942)より返還され、漸時本館より撤収されて陽明文庫に納入された。昭和20年には返還を終り、本館の近衛文庫は、一応ここで解消した。

陽明文庫は本館が約半世期の長期にわたり、寄託典籍の保管を全うし、またよくその価値を最高度に利用した業績に対して、昭和19年12月寄託解除の際、寄託典籍中より219部、3,150冊を本館に恵贈された。この寄贈本がすなわち現在の本館の近衛文庫である。したがって現在の近衛文庫は寄託解除以前の近衛文庫の縮少されたものである。

本文庫は漢籍を主幹としているが、「宇津保物語」「落窪物語」「大鏡」等の古写本、または「医学入門」「古今医鑑」等の慶長元和年間の和刻古活字版も多少はある。「荘子[ケン]斎口義」10巻は宋版の稀覯書であるが、内巻4、9巻の2巻を失うていることはまことに惜しい。「欒城集」前集50巻目2巻後集24巻目1巻3集10巻目1巻、引1巻26冊は嘉靖20年の活字印本で、「荘子 斎口義」とともに本文庫中の白眉である。「雲南通志」等の勅撰の中国地誌類を集成していることも注目されてよい。

(解説の出典: 京都大学附属図書館編「京都大学附属図書館六十年史」第3章第3節)
 

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