大智度論

 大品般若経の注釈書。漢訳のみ伝存し、中国・日本で大いに行われた。界の上辺に見える「経」「論」が経本文と注釈部分とに対応する。
 巻首の印から、石山寺一切経の一巻と知られる。現在の石山寺一切経では第三十六函が『大智度論』にあたり、百巻のうち四十一巻が現存する。他巻は諸所に分蔵されており、本書もその一つである。
 奥書に本文とは別筆で「天平六年歳次申戊十一月廿三日寫播磨国加茂郡既多寺」とあり、天平年間に地方で書写されたいわゆる知識経であることがわかる。「知識」とは、寺院の建立や経典の書写の為に財を寄進する信者を言う。僚巻には願主の名を記したものもある。元来百巻を百人で請願したもの。加茂郡既多寺(気多寺とも)は現在の兵庫県小野市近郊にあったと推定されている。石山寺一切経『大智度論』百巻の内、六十八巻が同様の識語を持ち、「既多寺知識経」と称される。このように、石山寺一切経『大智度論』は何組かの古写本の集成であり、本文もそこに加えられた訓点も一様のものではない。天平六年(七三四)書写は、石山寺一切経の中でも二番目に古い年紀である(最古は石山寺蔵『瑜伽師地論』巻第二一に見られる天平二年(七三○))。当時の地方写経の実態を知る上で貴重な資料である。
 本文には濃淡二種の白点(仮名、ヲコト点)が加えられており、石山寺一切経『大智度論』全体の調査を行った大坪併治の研究によれば、淡い白が山階寺(興福寺の前身)の大詮大徳が行った講義による天安二年(八五八)の点で(巻第五十の表紙裏に「天安二年山階寺伝大詮大徳所講」とある)、発達した組織を持った第一群点であり、仮名による付訓は少ない。付訓が少ないのは、全百巻にわたる経典の講読が短時日に行われた結果と推定される。後に加えられた濃い白が天慶元年(九三八)の東大寺点(第三群点)である(巻第五八の表紙裏に「以上三十三巻天慶元年□□□□大徳□□」とある)。(出典:「学びの世界 -中国文化と日本-」 平成14年度京都大学附属図書館公開展示会図録