挿絵とあらすじで楽しむお伽草子 第13話 弁慶物語
挿絵とあらすじで楽しむお伽草子
あらすじは、古文は苦手、何を言っているのかさっぱりわからない、でもお話の内容は知りたい、という方のために、わかりやすさを一番に考えました。厳密な現代語訳というわけではありませんが、お話の雰囲気が伝わるように工夫してあります。
第13話 弁慶物語
※本書は上巻を欠いているため、系統的に近いとされる慶安四年刊本(『室町時代物語集』所収)の本文によって補いました。また同系統の慶應義塾大学所蔵古活字版もあわせて参照しました。
■ 上巻 ■
昔、喧嘩好きの武蔵房弁慶というものがおりました。そもそもこの弁慶は、熊野の別当、弁心が、長年子どものないことを嘆いて、若一王子に祈り、授かった子どもでした。ところが十月十日たってもいっこうに生まれる気配がありません。三年たってようやく生まれたのですが、いざ生まれてみると、世にも恐ろしげな様子です。髪の毛は首の辺りまであり、眼も虎のように輝いています。歯は全て生えそろっておりましたし、足の筋肉なども隆々としています。普通の子どもの三歳くらいに見えました。その子どもが生まれるやいなや肘を突いて起き直り、ぐるりとあたりを見回したかと思うと、
「なんと明るいことよ。」
と言ってからからと笑ったのですからみなびっくりです。
弁心はこれを見て、
「なんとあさましいこと。神は鬼子をさずけたもうたか。」
と、腰の刀で子どもを斬ろうとします。
しかし、それを母がとめました。
「わたくしのお腹の中に三年もいたのですもの、ものを言うのも当たり前ではありませんか。この子は若一王子から授かった子です。なにか訳があるのでしょう。お気に召さなければ、運を天に任せ、野山にお捨てなさいませ。」
弁心はなるほどと思い、子どもを山奥に捨ててしまいました。とはいえやはり気になって、七日後に人を見に行かせてみると、何ということでしょう、木陰で木の実を拾って食べながら、悠々と遊んでいるではありませんか。この使いをみつけて、
「おのれは誰じゃ。わしを迎えに来たのか。」
と言って駆け寄ってくるので、使いは恐ろしくなり、命からがら逃げ出しました。
館に着いた使いは、恐怖のあまりものも言えません。ようやく、
「あの子どもは生まれて十日もたたないのに、わたしを追ってきました。あの山は鬼の住みかとなってしまうでしょう。」
と報告しました。それ以来その山へ入る者はおりませんでした。
***
同じ頃、京都に五条の大納言という人がおりました。この人も子どものないことを残念に思い、若一王子に参詣したところ、七日目の夜にお告げがありました。
「この山の中に、捨て子が一人いる。その子を育てよ。この世では悪人となるが、あの世では助けとなるであろう。」
大納言は夜の明けるのを待ちかねて、人を大勢つれて山に入ると、あちこち探し回りました。果たしてお告げの通り、子どもをみつけたので、輿にのせて館に連れて帰りました。
この子どもは容姿は悪いのですが、目元がただ者ではありません。大納言は喜んで、若一と名付けると、大切に育てました。
七歳になると、比叡山の西塔、慶心の坊に上らせました。若一は、何をやらせてもすぐに上達し、文字や書物はもちろんのこと、管弦にも優れた才能を示しました。
***
ところが一つ困ったことがありました。この稚児は大変な乱暴者なのです。日が暮れると武芸の稽古にあけくれ、隣房の稚児たちを相手に、喧嘩ばかり。挙げ句の果てには鍛冶に大きな金ぶちを誂えさせ、ふりまわすので、寺の修行者たちはみな若一の手にかかり、怪我をさせられてしまいました。これまでは師匠の慶心や父の大納言に免じて我慢していた人々も、とうとう堪忍袋の緒が切れました。山中の人々が、慶心に若一を訴える訴訟をおこしたのです。
「当山では稚児を大切に敬っておりますから、若一殿をも大事にしなくてはならないところですが、若一殿は成人するにつれて、学問に心を染めるどころか、どんどん乱暴者になっていきます。他の稚児たちも大けがをさせられて、稚児の親類たちはかんかんです。このままでは当山に稚児は一人もいなくなってしまうでしょう。何とかしていただきたい。」
困った慶心は、若一を父親の元へ送り返す約束をしました。
約束はしたものの、若一は師匠の慶心すらそばへ寄せ付けません。機嫌を取りながらようやく話を切り出しました。
「お前は何事にも優れているから、現世来世も頼もしく思っているけれども、山の人々がお前のことを訴えてきた。しばらくはどこかに隠れて、皆の怒りがとけるのを待ってはどうじゃ。」
若一は、
(ははあ、わしを疎んでこのようなことを言うのじゃな。)
と思い、師匠をぎろりとにらんだものですから、慶心も困ってしまいました。それでも自分が招いたことと観念した若一は、自ら師匠に別れを告げ、坊を出ました。
***
若一は、
(この山に上ったものは髪を剃るのが習いじゃ。わしはこの山に長く住みながら、俗体で山を下りるとは不本意じゃ。何とかして髪を剃り、出家したいものよ。)
と考えましたが、坊を追い出されてしまったので、行くあてもありません。それに誰かに頼んで出家させてもらえば、その人を師として敬い大切にしなければなりません。それもめんどうだというので、若一は自分で髪を剃ってしまいました。
さて、出家したからには戒を受けなくてはなりません。そこで今度は戒壇へ向かいます。戒壇を守っていた法師は、若一が髪を剃っているのを見て驚き、戒壇の戸に錠をさして逃げてしまいました。若一は戸を押し破って戒壇に上ると、自分一人で授戒の儀式をすませました。父弁心の「弁」の字と、師匠慶心の「慶」の字をとって、自ら武蔵坊弁慶と名乗ることに決めました。
***
戒壇を出て歩いていると、六十歳くらいの老僧、俊海に出会いました。
「やあやあ、これは当山一の曲者、若一じゃ。たった今出家して武蔵坊弁慶と名乗ることにした。法師になったことはなったが、父にも師匠にも捨てられて、衣がない。御坊の衣をいただきたい。」
俊海が断ると、目をいからせ、例の金ぶちで打とうとします。とうとう俊海は下着一枚にされてしまいました。
そこで弁慶ははたと考えました。
(たった今仏の御前で、盗みはしないという戒を保つと誓ったというのに、いやがるものから無理に取ったとあっては、盗みを犯したことになるかもしれぬ。むむむ……。そうじゃ、衣を取り替えたことにすればよいのじゃ。)
弁慶はいやがる俊海をにらみつけ、自分が脱いだ稚児の装束を無理矢理着せました。きらきらしい衣裳を身にまとった老僧の気持ちはどんなものだったでしょう。弁慶は老僧のお供をして、老僧を坊まで送り届けると、
「この衣を下されたお気持ちはよく覚えておきまする。この衣が古くなったら、いつでも遠慮なくここへ来て、新しいものをいただこう。」
と言い捨てて、都へ向かいました。
***
さて、弁慶、
(とにもかくにも山は出た。日本中を喧嘩の修行をしてまわり、国内でわしにかなうものが無ければ、唐へ渡ろう。もしわしよりも強いやつがおったら、その時は発心して成仏しよう。さらにその上を行く名人に出会ったら、主と敬い、天下を取ろう。)
と考えます。喧嘩をするにはまず、太刀が必用です。三条の小鍛冶のもとに向かいました。
「もうし、もうし、これは右大臣殿のお使いじゃ。太刀と刀を誂えよ。」
鍛冶は百日かかって立派な刀を完成させました。弁慶は大変喜んで、
「さあ、わしについて来るがよい。褒美をたんと取らせよう。」
と言うと、鍛冶をつれて右大臣殿のお屋敷まで行きます。ところが、鍛冶を門の外で待たせておくと、弁慶は逃げてしまいました。そうとは知らない鍛冶は、待てど暮らせど弁慶が出てこないので、おそるおそる邸の内へ問い合わせてみると、そのようなことは全く知らないとの返事。鍛冶は大損をしてがっかりです。
弁慶の方は、立派な刀を得て大満足。さらには鎧やはらまきなど、装束一式を同じ手口で手に入れました。
ところがそこで、弁慶はたと考えました。
(仏の前で誓った『盗みをしない』という戒を破ってしまったとは浅ましい。そうじゃ、金持ちの家に行き宝をもらって、鍛冶たちにくれてやろう。)
そのころ渡辺行春という国中に並ぶものがないほどのお金持ちがおりました。弁慶は手に入れたばかりの刀や鎧を身につけ、早速渡辺の邸に向かいます。見渡すと厳重な警備です。けれども弁慶はそれをものともせず、ずんずんと奥へ入っていきます。
行春はちょうど酒盛りをしていたところでした。宴もたけなわというそのときに、弁慶が大声で、
「これは遠国から熊野へ参詣する修行者でござる。食べ物が尽きたので、蔵一つ開けてたもれ。」
と叫んだものですから、行春はかんかんです。
「修行者の身なりで飢えた様子ならわかるが、武者の出で立ちで『蔵ひとつ』というとは不思議。強盗のたぐいであろう。ものども、召し取れ。」
「ものをくれないというならまだわかるが、強盗とは聞き捨てがたい。ええい、目にもの見せてくれるわ。」
弁慶は縁側へ飛び上がり、行春をつかまえると、
「無駄な殺生をして罪を作る気はないが、このあたらしい太刀を馴らそう。」
と言いながら、例の大太刀で首をなでます。行春は生きた心地もしません。
「矢の一本でも射てみろ。こいつの首をへしおるぞ。お前たちの腰の刀も踏みつぶしてくれるわ!」
大の眼をいからし、ふんぞりかえっている様子をみれば、七、八尺はあろうかと思われます。どんな天魔鬼神もここまではおそろしくありますまい。
そこへ行春の女房が走り寄って来ました。
「田舎の金持ちのことですから、おみそれいたしました。亭主のそそうを、ひらにひらにお許し下さいませ。」
弁慶はそれを聞いて、
「はじめからそう言えばよいものを。」
と、行春を許してやりました。
弁慶は双六の盤に腰をかけると、扇をたたんで拍子をとり、今様を歌い始めました。
「この世の栄華などはかないもの。命も草葉の露のようなもの。それなのに、どうして財産をおしんだりするのか。」
さながら極楽に住むという迦陵頻伽のような声で歌います。女房はこれを聞いて大変喜びました。
「わたくしどもは、お金持ちではあっても、教え導いてくれる師にめぐりあえませんでした。これはきっと仏のご方便でしょう。さて何を差し上げたらよろしゅうございますか。」
「では宝を見せてもらうとしよう。」
女房が蔵を開けさせると、蔵の中には数々の宝物がぎっしりとつまっています。
「何でもお望みのものを差し上げます。」
ところが弁慶は、欲深いわけではありません。
「小袖を三十人が持てるくらいいただきたい。」
「まあまあ、たいそうなことをおっしゃったわりには、欲の無いこと。すぐに用意させましょう。」
弁慶はこれを受け取り、
「お志かたじけない。また足りなくなったら頼む。」
といって、都へ向かいました。小袖を持った三十人を、十人ずつ、鍛冶や鎧、はらまきをつくらせた職人三人のもとへ送りました。驚いたのは職人たちです。あっけにとられて言葉もありませんでした。
***
さて、弁慶は熊野へ参詣しようとでかけましたが、日も暮れたので、ある古堂で夜を明かすことにしました。夜中になると、なにやら人の声がします。どうやら盗人たちが酒盛りをしながら、手柄話をしているようです。弁慶が聞いていると、何ということでしょう、話題になっているのはあの渡辺の館ではありませんか。
「何といっても渡辺の行春ほどの金持ちはいない。夜討ちなどして、宝を取り残すのも無念じゃ。大船に乗り、武器を船底にかくしておき、四方から攻め寄せようではないか。明日の辰の刻に勢をそろえ、未の刻に押し寄せよう。」
弁慶はこれを聞いて大喜び。
(渡辺に受けた恩をどうやって返そうかと思っていたが、これは願ってもないこと。)
と、すぐに渡辺の屋敷へ向かいました。
まだ暗いうちのことです。行春はびっくり。
「また例の坊主がきたぞ!どうすればよいのだ!」
とふるえています。ここでも女房の方が落ち着いています。
「荒々しい人ほど、よくもてなせば却って恩に感じると申します。わたくしにおまかせください。」
というと、弁慶を招き入れ、ご馳走を進めました。弁慶はご馳走を食べてしまうと、法華経を読み始めました。その尊さといったらありません。館の人々は感動しました。
そうこうするうちに、四方から盗賊たちが押し寄せてきました。驚いたのは行春です。仰天して肝をつぶしています。
弁慶は予想していたことなので、少しもあわてず、読み終わった法華経をくるくると巻きなおし、目を閉じて神妙にしています。
行春と女房は、弁慶に手を合わせます。
「お願いです。どうかお助けくださいませ。」
「お安い御用。」
弁慶は落ち着いて身支度を整え、
「味方のものども、よく聞け。門を開いて敵を中におびきよせるのじゃ。その後、門を閉ざし、橋をはずして、敵を中に閉じ込めよ。」
と命じます。味方たちはそのとおりにしました。盗人たちはわなとも知らず、どっと門のうちへと攻め入ってきました。
「味方のものたちは休みたまえ。この弁慶が引き受けよう。」
弁慶が一度なぎなたを振るうと、屈強の武者たちが数十人倒れました。ニ、三度振り回しただけで、たちまち敵は痛手を負って退散しました。味方のものたちには怪我もありません。
行春や女房をはじめ、家来たちはみな弁慶を神か仏かと拝みました。弁慶は恩返しができたと満足した様子です。さらにこの知らせを聞いた平家が、感心して行春に所領を与えたので、行春はいよいよ繁盛しました。
***
さて、弁慶はというと、熊野参詣を思いとどまり、武者修行にでかけました。越前の平泉寺というところにたどりつきました。仏前でお経を唱えていると、何か忘れたような気がして落ち着きません。
(はて、何か途中で落としたか。いやいやそんなことはない。しかし何か足らぬ。)
そこで弁慶はたと気が付きました。
(そうじゃ。この四五日というもの、けんかをしていないではないか!よしよしひとつここでけんかをしてやろう。)
ところが寺の中をみまわしても、相手になりそうな者はみえません。弁慶はある坊へ入っていきました。おりしも酒宴の最中のよう。庭では鞠をしています。弁慶は、
「物申さん。」
と声をかけたものの、用事などあるがわけありません。とっさに、
「御坊たちの蹴っているものは何という。」
と言いました。人々は笑いながら、
「これは鞠というものじゃ。」
と答えます。
「ほほう、その鞠というのは御坊たちの頭によく似ている。鏡を見たまえ。鞠も頭も区別がつかぬぞ。わしのようなおっちょこちょいは、間違って御坊たちの頭を蹴ってしまいそうじゃ。」
弁慶は大口を開けてからからと笑います。血気にはやった若い衆徒たちが跳びかかってきました。弁慶は喜んで、広い場所へ誘い出そうと、扇をひろげて招きます。
ところが、中に比叡山の法師だった衆徒がいました。
「これこそかの有名な武蔵坊弁慶じゃ。寺中のものがかかっても、簡単に討ち取れるものではない。引き返せ。」
これを聞いて衆徒は引き返していきました。拍子抜けしたのは弁慶です。あちこち走り回って、相手を探しましたが、みな恐れをなして出てきません。弁慶はあきらめて平泉寺を立ち去りました。
***
今度は中国道へ下り、播磨の書写山に参詣しました。ここでも仏前で静かにお経を読んでいます。それを見た衆徒は、弁慶についてあれこれ噂しはじめました。
「武蔵坊弁慶とはたいそうな愚か者という噂だったが、ずいぶん神妙に経を唱えているではないか。よもや本物ではあるまい。」
「いやいや、悪に強いものは善にも強いというではないか。弁慶に違いない。」
「いいやにせものじゃ。」
「いや本物じゃ。」
とうとう言い争いになってしまいました。
「言い争っても仕方ない。ちょっかいをかけてみればよいのじゃ。」
「それももっともじゃ。」
ということで、弁慶に酒を勧めました。もとより大酒飲みの弁慶です。しこたま飲んで酔いつぶれてしまいました。衆徒は、弁慶の顔に下駄の絵を描いて、
「弁慶は下駄に似ているぞ。鼻緒をすげてはこうか。」
という歌を書き付けました。
弁慶はこれに気がつかず、目覚めると再び仏前でお勤めを始めました。ところが稚児や法師が弁慶の顔をみてくすくす笑っています。弁慶は、
(さては誰かに鼻でもとられたか。)
と思い、顔をなでまわしてみましたが、どうやら目も鼻も口もそろっている様子。そこで池のほとりに行って、顔を映してみました。するとどうでしょう。おかしな落書きがされているではありませんか。
(これは人が笑うのも道理。他人事ならさぞかしおかしかろう。わっはっは。)
弁慶は手を打って大笑い。しかしそこではたと我に返りました。
(こんなことをされて、仕返しせずにはおくものか。しかし誰の仕業かわからぬ。どうしたものか・・・・。よしよし、今の長吏は片目がつぶれているそうな。それを嘲笑する落書きをして、その詮議の場で犯人を探し出そう。)
弁慶は大講堂の柱に、長吏の片目なのを馬鹿にした落書きを書き付けました。このことが長吏の耳に入り、長吏はかんかんです。すぐさま山中の衆徒が集められました。ところが衆徒たちはみな知らないといいます。さては客僧や修行者の仕業かということで、今度は客僧や修行者に縄をかけ、講堂に集めました。弁慶は、今だとばかりに飛び出して、修行者の縄をいちいち切って回りました。
その時、長吏の第一の弟子、心恩房妙俊という人が進み出で、大声で叫びました。
「誰の許しを得て、修行者の縄を切ったりするのか。それに衆徒の面前で高足駄とは失礼な。脱がぬと承知せぬぞよ。」
「足駄を脱げとな。この寺には弁慶が敬うべき人は一人もいない。弁慶の顔に描かれた足駄で、衆徒のつらの上を歩いたとて、何の不都合があろうか。柱に描いた落書きはこの弁慶の仕業じゃ。修行者たちの咎ではない。それも衆徒を集めて弁慶にいたずらをした張本人を探し出すために書いたのじゃ。さてはお前か。」
心恩は
「なにをっ!」
と叫ぶと長刀を取り直し、弁慶にかかっていきました。けれどもとうてい弁慶の相手になるような者ではありません。弁慶は長刀を奪うと、講堂の上に投げ上げました。長刀をとられた心恩は、今度は太刀でかかってきましたが、それもまた講堂の上に投げ上げられてしまいます。仕方が無いので近くの庵室に走り入り、大きな木の燃えさしをもってきて、弁慶にとびかかります。
「白昼に火を振り回すとは何事か。」
弁慶はこれも講堂の屋根の上に投げ上げます。心恩を左の脇にはさみ、金槌で兜のはちをぐわんと打ちました。
心恩の同宿の丹後房が助太刀にはいりますが、弁慶はこれもわきにかかえ、かるがると二人の頭を打ち合わせ、
「なかなかよい鐘の音じゃ。」
と涼しい顔。大衆はこれを見て、いっせいに弁慶にかかりました。弁慶は天狗のようにひらりひらりとかわしています。太刀を抜き、斬って回ると、あっという間に主だった衆徒たち五十人を斬り伏せました。
そうこうするうち、激しい風が吹き、屋根の上の燃えさしがたちまち炎を上げました。衆徒は、
「大変じゃ。経や仏を運び出せ。」
と、大騒ぎになります。弁慶は一度は門を出ようとしますが、立ち返り、
「仏も伽藍も恨みたもうな。衆徒が悪事を犯すならば、何度でもこの堂を焼いてやろう。さりながら、このたびは、この弁慶が方便をもって再建しよう。」
と言って、都へ上りました。書写山から都までは、往復四日ほどかかる道ですが、午の刻の終わり(午後一時ころ)に戦が終わると、申の刻の終わり(午後五時ころ)には京にたどりつきました。まず内裏へ行って、
「播磨の書写山は今日の午の刻に炎上した。急いで再建せよ。さもなくば、天下の大事がおこるであろう。これは書写山の伽藍からの使いである。」
と叫ぶと、どこへともなく消えていきました。内裏では大騒ぎになり、清盛入道のもとに勅使がたてられました。清盛が書写山へ使者を遣わして調べさせると、使者は往復四日かかって京都に戻り、書写山の状況を報告しました。清盛親子は参内し、
「書写山はあのお告げの通りだったということです。午の刻の炎上を申の刻に告げるとは、人間業ではありません。まことに仏菩薩のはからいにちがいありません。」
と報告しました。そこで帝は鍛冶や番匠を書写に遣わしましたので、書写山はほどなくもとのように再建されました。
■ 下巻 ■
その後、弁慶は書写山に参詣し、仏前で言いました。
「この寺を焼いたのはこの弁慶でござるが、再建するのもまた弁慶が仕るのじゃから、たいした罪でもありますまい。なあに、古い御堂を壊して新しいものをお造りするのです。ご奉公とでもお思い下され。
ただし、弁慶は財宝を持っておりませぬ。もとよりこの弁慶は悪行を好む身でござる。朝恩にほこった平家の侍たちから、太刀を千本奪い取って、釘の代金として差し上げましょう。比叡山で受けた偸盗戒(盗みをしないという誓い)は、今度ばかりはお許し下され。」
そうして礼拝してから仏の前を立ち去りました。
その後、弁慶は洛中で平家の侍から太刀を奪って歩きました。特に平家の中でも一人当千の強者を選んで襲います。八尺ほどの法師がざんばら髪を振り乱して平家の侍の太刀を盗るのですからただ事ではありません。都は大騒ぎになりました。
そうこうするうちに、九九九本の太刀を手に入れました。そこで、最後の一本は、かの有名な源九郎義経の黄金つくりの太刀を盗ろうと思い立ちました。この義経というのは、故左馬頭義朝の息子で、幼いときから鞍馬寺で兵法の奥義を究めた人です。
弁慶はこの太刀を盗ろうと機会をうかがっておりました。六月十五日の月の明るい夜のことです。とうとう北野神社の社壇で義経に出会いました。義経は社壇に向かってお祈りの最中でしたが、弁慶は黄金つくりの太刀を見逃しませんでした。千本目と狙っているあの太刀です。
弁慶はまず大きな数珠を取り出し、陀羅尼や真言を唱えながら、さり気なく義経の前を行ったり来たりし、三度目に自慢の棒で殴りかかりました。義経は右足で弁慶の肘を受け、いつの間に抜いたのか太刀を振り上げると、ひらりと飛び退きました。義経は、
「夜中のことゆえ、もしや人違いではないか。」
と言うと、弁慶は、
「男はたとえ人違いであっても、打たれたら打ち返すものだ。」
と答えてかかってきます。義経は太刀を合わせることはせずに、ひらりひらりと飛び上がり、弁慶の棒をかわしていましたが、しまいにはその棒を切り落としてしまいました。
弁慶は大笑して、
「よく切れる刀じゃのう。よしよし、それならば手並みの程を見せてくれるわ。」
と言うが早いか、四尺六寸の太刀を抜いて、ものすごい勢いで斬りかかってきます。
義経は、
(ははあ、こいつは噂に聞く弁慶に違いない。首を打ち落としてやろうか。いやいや、これほどの者を殺してしまうのは惜しい。しばらく様子をみてみようではないか。)
と考え、鞍馬寺で学んだ兵法の術をつかって天狗のように弁慶の頭の辺りを飛び回りました。さすがの弁慶も呆然として立ちつくしているところを、すかさず弁慶の太刀を奪い取ってしまいました。
「憎い法師め。仏教に帰依するものでありながら、このような悪行をするとはけしからん。」
弁慶は、
「これまでたくさんの人と勝負をしてきたが、このような不覚をとるとは、無念なことよ。」
と、立ちすくんでしまいました。
「この太刀が欲しいか。」
「わが太刀なのじゃから、欲しくないわけがなかろう。」
「それならばやろう。」
義経が太刀を投げつけると、弁慶は太刀を空中で受け取ると、そのまま鞘に収めました。
見ると義経は鎧も付けていません。
(心は強くとも、力ではわしに及ぶまい。)
と、両手を広げてつかみかかると、義経は弁慶の左の脇をすりぬけました。ところがどうしたことでしょう、振り返ってみると誰もいないではありませんか。弁慶はしばらく呆然としていましたが、
(この北野天神が弁慶の悪行を戒めるために、男の姿をかりて現れたもうたか。ありがたや、ありがたや。)
と、ありがたがります。弁慶は、社壇に近づき、
「これからは悪行をいたしません。」
と礼拝すると、神社を後にしました。
ところが、四、五町ばかり行くころには、先ほどの道心など、どこかへ吹き飛んでしまいました。再び社壇に戻ると、
「さきほどは悪行をしないと誓ったが、百日の間は神様も猶予を下さるじゃろう。これから百日のうちにあの男に会ったなら、差し違えて死んでやろう。もし会わなかったなら、今までの悪行を懺悔して、ひたすら後生を願うことにしよう。」
と祈誓して、帰っていきました。
同じ年の七月十四日の夜、弁慶はいつもの装束に例の棒の切り残しを持って、法成寺の方へ歩いていきました。すると塔の中から美しい笛の音が聞こえてきます。何気なくのぞいてみると、笛を吹いているのはいつぞやの若者です。弁慶はさり気なく近付きました。
義経は(憎いやつ)と思い、天狗の術でとがった石を投げつけました。石は矢のように飛んでいくと、弁慶の額に命中しました。弁慶は目を見開いて歯を食いしばってこらえています。
「つぶて打ちの上手な冠者よ。弁慶の額は生まれつき鉄でできているから破れなかったものの、ほかの者ではこなごなになっていたであろう。今度はこちらから行くぞ。」
太刀を抜いてかかってきます。
義経は、塔の上に飛び上がりました。塔のてっぺんにある九輪に腰掛けて、
「ここまで上って来られよ。話をしようではないか。」
と弁慶を呼んでいます。
弁慶は塔を見上げて悔しがりますが、
(これはますますただ者ではないな。)
と思い、宿へ帰って行きました。
八月十七日になりました。義経は清水寺に参詣しています。翌十八日は観音の縁日なので、寺には多くの人々が集まっています。弁慶は人々を押しのけて、仏前まで進みます。座ろうとすると、例の冠者が座っているではありませんか。怖いもの知らずの弁慶も、さすがに胸騒ぎがして、一瞬ひるみました。心を静めると、
(僧の身でありながら、この男の下座につくのもしゃくにさわる。どうしようか。)
と思っていると、義経は両目をふさいで念仏の最中です。これはチャンスとばかりにつかみかかろうとすると、右足で胸板を蹴られて、後ろ向きに転げてしまいました。
(これほど多くの人の前でしくじるとは、はずかしいことじゃ。)
と思った弁慶は、
「殿は相変わらずじゃのう。」
と、知り合いのふりをして、場をとりつくろいました。弁慶はおとなしく念誦をはじめましたが、しばらくたつと、義経をはたとにらみ、
「寺の堂の内では、法師が上座につくものであろう。俗体の身でありながら、この法師の上座につくとは何事か。」
と、いいがかりをつけます。義経は、すました顔で、
「甲冑を着た法師なぞあるものか。曲者は、堂の外へ追い払うのが道理であろう。」
と答えます。
何しろ鬼のような法師を少しも恐れず、落ち着きはらっているのですから、まわりの参詣の人たちの方がはらはらしています。ところがその中に鞍馬寺の法師がおりました。
「あの方は源氏の御曹司、九郎義経殿にあらせらるるぞ。このように同座することさえ恐れ多い。」
弁慶はこれを聞いて、さてはやはり義経であったかと得心し、義経の耳元にささやきます。
「このわしをどのようなものとお思いか。西塔の武蔵坊弁慶とはわしのことじゃ。」
義経は、
「ほほう。何やつと思い、切り捨ててやろうかと思っていたが、よくも助けておいたものよ。さてはおまえが弁慶であったか。」
と、からからと笑います。そこで弁慶は、勝負を申し込みます。
「たびたび手並みを拝見したが、今度こそ決着をつけさせてもらおう。」
「どちらかが首をはねられるまでやろうではないか。」
「いやいや、そんなことをしても無益じゃ。もし弁慶が勝ったら、家来になってもらおう。もし殿が勝ったら、この弁慶が朝夕ご奉公しよう。」
義経は、
(弁慶のようなつわものを家来にすれば、一騎当千。)
と思い、挑戦を受けます。堂のうちでは人目もあるため、五条の橋へと向かいました。
「源九郎義経、正年十九歳。」
「武蔵坊弁慶、正年二十六。」
お互いに名乗りをすると、するりと太刀をぬきました。激しく渡り合います。
おりしも五条の橋は、清水に参詣する人でいっぱいです。みなこの勝負を珍しそうに眺めています。
弁慶と義経は、激しく火花を散らしながら戦っています。鎧で身をかためた弁慶は、汗だくで義経に切りかかります。もとより義経は鎧などつけていません。ひらりひらりと、鳥のように飛び交い、とうとう弁慶のひざの口を切りつけ、弁慶が少しひるんだところを、近づいて太刀を奪い取ってしまいました。この勝負、義経の勝ちです。
「さあ、家来になるという約束はどうした。」
弁慶は言葉もなく、義経の前にかしこまりました。
「やあ弁慶。我が身はともかく、平家を敵とねらうわしの家来となれば、おまえもまた肩身の狭い思いをしなくてはなるまい。不憫なこと。」
「主従の契約を結ぶからには、そこは心得ておりまする。何事も御心のままに。」
そこで、義経は弁慶を伴って、都中をめぐりあるきました。
義経が武蔵坊弁慶を家来にし、平家を滅ぼそうとしているという噂は、たちまち清盛入道の耳にも入りました。
「困ったことじゃ。平治の乱の折、殺すべきであったあの義経を生かしておいたのが間違いじゃった。恩を忘れて平家にはむかうとは・・・。あまつさえあの弁慶まで味方に付けたという。どのような手を使ってもかまわん。二人をからめとれ!」
侍たちは仰せを承り、二人を捕らえようと躍起になりますが、兵法にたけた義経たちのことです、捕まるはずはありません。平家の人々は、どこへ行くにもびくびくしていなくてはなりません。どうにかしなくてはということで、一門が集まって話し合いをすることになりました。
その中である者が、
「弁慶は比叡山の西塔、慶心律師の弟子ということです。この律師を召し出し、弁慶の居所をおたずねになってはいかがでしょう。」
と提案しました。早速三百騎の武者とともに、使者がつかわされました。慶心は、
「そのものならば、稚児のとき、山中に訴えられて、この坊を追い出されております。それ以来行方を存じませぬ。」
と答えますが、役人たちは
「ならば都へ参上して、その由を入道殿に申し上げよ。」
と、山を下りることを求めます。慶心は承知し、輿に乗って都へと向かいました。
そのころ義経と弁慶は北白川のあたりにおりました。このことを聞いた弁慶は、
「師匠が六波羅へ召されたのも、我が身ゆえのことに違いない。師匠に憂き目を見せるとは無念でござる。いとまをたまわって、師匠の身代わりとなり、平家に捕らえられましょう。」
と、六波羅へ出向こうとします。
「それは道理だが、師には咎もないはず。すぐに山にお戻りになろう。もしおまえが捕らえられたら、斬られるにきまっている。ここは堪忍してとどまれ。」
「たとえ斬られても、たちまちに怨霊となって平家一門を滅ぼし、源氏の守護神になりましょうぞ。この弁慶の運がまだつきていないならば、うまく逃げ、再びお目にかかりましょう。」
弁慶は主君と師匠との板挟みに苦しみながらも、師匠の恩に報いるために、涙を流して六波羅へと向かいました。
弁慶は師匠の乗った輿を見つけると、すぐに追いついて、輿にとりつき、大声で言いました。
「この慶心坊はどこへ行かれるのか。」
輿かきの人夫たちはおそれをなして、ふるえながら、
「六波羅へです。」
と答えました。
「仏事にしてはものものしい群兵じゃ。何のためか。」
それを聞いた慶心は、弁慶とも知らず、
「弟子の弁慶のことを尋問されるのじゃ。」
と答えます。
「それならばお師匠様が参られるまでもございませぬ。弁慶とはこのわしのこと。わしが自ら六波羅へ参りまする。さあさあ急いで山にお帰りを。」
慶心は驚き、涙を流します。
「わしはもう余命いくばくもない老僧じゃ。しかも身には何の咎もござらぬ。平家にその由を説明すればよいのじゃ。しかし、おまえはまだ若い。命を全くして、わしの菩提を弔ってほしい。六波羅へはわしが参ろう。」
「いいや、それならば警護の武士たちを踏み殺して、この場で腹を切まする。お帰り下されば、縄をかけられ、六波羅へ参りましょう。」
これを聞いた警護の武士たちもあわてて、
「慶心律師を召すのも、弁慶のことをお尋ねになるためである。本人が行くと申しておるのだから、この上は慶心は比叡山へお帰りあれ。」
と言うので、慶心も力なく、輿を山へと向けました。
弁慶は、
「お師匠様に勘当されたことを、朝夕嘆いておりました。この上はお許しいただきたい。」
と涙ながらに訴えます。慶心も涙を流し、
「もとより山中からの訴えであったため、是非におよばず、どこへなりとも行くがよいと言ったまで。勘当などとは思っておらぬ。」
と答えます。
「さてはまことの勘当ではなかったのに、おろかにもお怨みしておりました。悲しいこと。」
弁慶は涙を流し、刀を師匠に渡すと、自ら手を差し出して縄にかかります。慶心を名残惜しげに見送り、馬に乗せられて六波羅へ向かいました。
(この程度の縄ならば、十本かけられてもたやすく逃れられるものを。)
と、弁慶は内心あざわらっているのですが、侍たちは大喜びです。
弁慶たちは六波羅へ到着しました。清盛入道は喜び、すぐに平家の一門を集めました。弁慶は力自慢の者十人にひきたてられて、清盛の前に引き出されました。
「上様の御前だぞ。頭が高い。」
「はて、上様とは誰のことじゃ。桓武天皇の子孫とはいえども、はるかに末流ではないか。この弁慶も天智天皇の子孫じゃ。氏素性は勝るとも劣るまい。誰を敬い、ひれ伏せというのか。」
これを聞いた清盛はかんかんです。弁慶を門外へ引き出せと命じます。役人たちは弁慶を引っ立てようとしますが、押せども押せどもびくともしません。役人たちは困り果ててしまいました。
そのとき、弁慶は小声になって役人たちにいいました。
「ここに居並ぶ平家の一門の人々の名を教えてくれたら、動いてやってもよいぞ。」
役人は喜んで、平家の人々の名前を一人残らず教えました。
(わが君義経がねらっておられるのは、こやつらか。すぐにこの縄を切り、入道のあの生っちろい首を斬り落としてから、他の面々とも勝負をつけよう。)
弁慶は縄を切ろうとしますが、
(いや、まてよ。どうせ滅ぼす平家なら、入道はぜひとも御曹司の手にかけたいものよ。むむむ。どうすべきか……。)
と、思い返して思案しておりました。
重盛はこの様子を見て、
「弁慶の目つきをみたところ、その程度の縄は何とも思っていないようだ。金の鎖であろうと断ち切るであろう。者ども、くれぐれも不覚するなよ。」
と、忠告します。
障子を隔てたところでは、若侍たちが集まって相談しておりました。
「あの弁慶がひったてられてきたのだから、義経も時間の問題であろう。弁慶を拷問すれば、すぐにも義経の居所を吐くであろう。火ぜめにするべきか、水ぜめがよいか。」
これを聞いた弁慶は、
「弁慶は学問、合戦、けんか、相撲、その他あらゆることを経験したが、いまだ拷問とやらを知らぬ。はて、それは甘いものか、苦いものか。試してみたいものじゃ。」
と言って、大口をあけて笑います。
これを聞いた入道は、
(さて、この弁慶をいかがしよう。)
と、途方に暮れてしまいます。
その時、吉内左衛門が進み出て、
「あの弁慶は、どれほど拷問にかけようとも、口をわりますまい。わたくしが、あやつをだまして、うまく義経の居所を聞き出しましょう。」
と申し出ます。清盛は納得し、吉内に任せることにしました。
さて、吉内はまず弁慶にたらふくごちそうを食べさせます。もとより大食いの弁慶のことです、出されるものを次々平らげました。
弁慶がお腹もいっぱいになったころ、吉内は愛想よく弁慶に近づきました。
「どちらさまかな。」
「吉内と申す者です。直々にお耳に入れたいことがございまして参りました。」
「何事か。」
「わたくしは平家に仕えてはおりますが、あなたとは親戚筋、お味方でございます。もっと早く参上したかったのですが、周りをはばかってなかなか参上できませんでした。
実は、平家の中ではこのような話がすすめられております。他言すれば死罪ときつく申し付けられておりますので、くれぐれも御内密に。重盛殿は、
『昔は源氏平家は鳥の翼のように並んで、天下を治めてきた。それが新院・本院の争い以来、源平の仲が悪くなり、今は源氏は滅び、平家が繁盛している。しかし、翼の一方が欠けてしまっては、飛ぶことはできない。しかも、義経は戦の名人である。国々の源氏が同心するならば、われわれ平家もどうなるかわからない。
そこで、義経を鎌倉に据え、東国三十三カ国を源氏の知行とし、西国三十三カ国を平家の知行としてはどうか。もとのように、源氏平家仲良く、天下を治めようではないか。』
と主張なさり、入道もこれに賛同なされました。それで義経殿を捜しているのです。こんな話を申し上げるのも、御坊のためと思ってのことです。」
「あら、ありがたいことよ。持つべきものは親類じゃ。殿が三十三カ国の主におなりとなれば、この弁慶とて四、五国知行する身となろう。それでは義経殿の居場所を教えよう。決して他の人にはおっしゃるな。」
吉内は大喜びです。弁慶に額を近づけて聞き出そうとします。
「して、義経殿の居場所は。」
「何を隠そう、この日本国のうちじゃ。」
「なんと!御坊はわしを愚弄する気か!」
「めっそうもない。これから国の名、郡の名、里の名、誰の家にいるかを言おうと思っていたところが、短気にも腹を立てなさるとは。」
「むむむ、それならばよい。ではどこにいるのじゃ。」
「あの雲の下じゃ。」
吉内はもとより短気な男です。完全に腹を立ててしまいました。
「二度もわしを愚弄するとは何たること!」
「こちらは愚弄などする気はなかったわ。そっちがこちらをだまそうとするから、こちらもだましたまで。」
からからと笑う弁慶に、吉内はどうすることもできず、すごすごと帰っていきました。沢山のごちそうを費やし、挙げ句の果てに嘲弄され、面目を失ってしまいました。人々も、弁慶ほどのものが吉内ごときにだまされるものかと、笑いました。
吉内の失敗を聞いた清盛は、すぐに弁慶を斬るように命じました。大勢で弁慶を囲んで六条河原へ引き立てます。都の人々は、名高い弁慶の最期を見ようと集まってきました。
吉内は嘲弄された無念さに、自ら斬り手をかってでました。弁慶は例によって吉内をさんざんからかいます。吉内は腹を立て、太刀を抜くと、弁慶の後ろにまわりました。弁慶は振り返り、
「ああ、恐い恐い。その白い太刀は金か氷か。手が冷たくはないか。」
と、全く動じていません。吉内は満身の力を込めて、太刀を振り下ろしました。ところが、いつのまによけたのでしょうか、前にある石にあたりました。
二度目に太刀を振り下ろすと、弁慶はずんと立ち上がり、ひらりと逃げ出しました。人々はびっくりです。弁慶が放れたというので、追いかけました。
このとき、弁慶の綱をにぎっていたのが、吉内の嫡男、五郎兵衛というものでした。六十人力の力持ちで、勇敢な若者でした。父の吉内に命じられ、弁慶を逃がすまいと、縄を自分の腹巻きにしっかと結び付けてありました。
ところが、そのまま弁慶が走り出したのですから大変です。太刀を抜こうとしたところを引っ張られて倒れてしまいました。何しろ虎よりも足の早い弁慶のことです。五郎兵衛は河原を引きずりまわされて頭を割り、二十七という若さで命を落としてしまいました。
弁慶が、
「南無大峯八大金剛童子。」
と祈念して、両手を伸ばすと、綱はばらばらに切れました。弁慶は河原の石を拾っては投げ、拾っては投げます。石はまるで矢のように降り注ぎましたので、多くの人がそれにあたって命を落としました.
おりふし連日の雨で川は水かさをましていました。弁慶がざんぶと川に飛び込んだので、侍たちは川下でまちかまえます。ところが弁慶は五、六町川上へ泳いでゆき、大きな堰にのぼりました。はるか川下に待ち構える侍たちに向かって、
「弁慶はここにござる!用があるならばこっちへ来い。」
と叫びます。侍たちはさんざんに矢を射かけます。それでも弁慶にはひとつも当たりません。
「さあ、この弁慶はここで自害するとしよう。しかしその前に、入道殿にことづてを頼む。
このたび弁慶は六波羅へ参上したが、それには三つの徳がござった。ひとつには師匠を留めることができたこと、二つには入道殿をはじめ、平家の一門の顔を知ることができたこと、そして三つには弁慶のふるまいをちとばかりお目にかけられたこと。
平家の一門の顔を見知ったからには、御曹司と二人して、ひそかに斬っていくことにしよう。順順に斬ってゆけば、平家といえど、いつかは滅びるであろう。」
侍たちは次々に矢を射ますが、このごろは義経に矢を避ける術を習っていたので、弁慶は軽々と矢をよけます。今度はふたたび水の中に入ると、敵のいる川岸に上がり、大勢の中に飛び込んで行きます。侍たちは、
「鬼神といえど、敵は一人じゃ。うちとれ、うちとれ!」
と反撃してきます。するとにわかに川が氾濫し、右も左もわからなくなりました。侍たちは仲間同士で斬り合います。多くの者が命を落としました。
弁慶はこの様子をしばらくは見物していましたが、休んで気を取り直すと、義経の待つ北山へと帰っていきました。
「弁慶、不思議にも命ながらえ、ただいま帰ってまいりました。」
すると義経は、
「この義経もたった今、六条河原から戻ったところよ。」
と言います。弁慶は驚きました。
「まさか!空言をおっしゃいますな。」
「うそかまことか疑うなら、これからお前がここを出てから今までのことを残らず語って聞かせよう。」
義経は、弁慶が師匠をみつけて、身代わりになったこと、清盛に悪口をあびせたこと、縄とりから平家の一門の名を聞き出したこと、弁慶に嘲弄された吉内が腹を立てて帰ったこと、六条河原での戦いのありさまなどを語ります。
「お前が平家の侍たちの中に飛び込んだときに川の水が氾濫したのもこの義経の仕業だ。もし流れ矢にあたりでもしたらと思ってのことだ。」
義経はからからと笑いました。
「主は影のようにこのわたしに添い、警護してくださっていたのか。何とありがたいこと。この先たとえ国を隔てて戦をしようとも、御曹司はいつもこの弁慶を見ていてくださると肝に刻んでおきましょう。かたじけないこと。」
弁慶は感涙に咽びます。義経も、
「鎌田兵衛が討たれた頃に、義経が今のように一人前になっておれば、決して討たせはしなかったものを。鎌田が生きておれば、弁慶と二人、この義経の左右に仕えてくれたであろうに。そうすれば平家を滅ぼすなど他愛ないことだったろう。」
と言い、主従はしばし涙を流しました。
そのころ、弁慶を逃がしたという知らせは、清盛の耳にも届きました。
「義経一人でさえ、油断ならぬと思っていたのに、あまつさえあの弁慶が加わり、平家の一門を狙うとなれば、われわれはまず篭居せねばなるまい。」
すると重盛は、
「だから弁慶が御前に引き出されたとき、『用心せよ』と言ったのです。あの眼はわれわれと勝負しようとしている眼でした。おそらくはあの時、義経もあの場に来ていたと思われます。なまあたたかい風が吹いておりましたから。
けれど、もし我が一門が仏神に運をまかせ、慈悲の政道を行うなら、天がわれわれを護ってくださいます。いくら義経といえど、われわれを害することはできません。」
と答え、礼節を守り、慈悲深くあることが兵法の奥義であると清盛に説きました。
さて、弁慶は、
「あの時六波羅にいらしたのなら、どうして弁慶に知らせて共に清盛親子を討たなかったのですか。」
とたずねました。すると義経は、
「わたしもそのつもりで行ったのだが、あの重盛が眼をいからせて義経のいる方をじっと見据えていたのだ。しかも重盛の頭上には、義経の帰依する金色の千手観音が見えた。清盛を討つことができたとしても、観音が加護する重盛は討つことはできまいと思い返したのだ。重盛は正しい政道を行う聖人、義経は世間をうかがう悪人。だからこそ仏神も重盛を守護し、義経を見放されたのだ。あさましいこと。」
と答えます。弁慶は、
「平家の運はもう尽きております。重盛とていつまで永らえるものかわかりません。もう少しのご辛抱です。」
と言って義経を勇気付けました。
義経と弁慶は、二人でつれだって洛中の寺社へ参詣したりしておりました。清盛は、
「義経は色白の小男、弁慶は色黒で背の高い法師じゃ。討ちとって手柄をたてよ。」
と仰せ付けたので、都では罪もない小男や大きな法師が多く殺されました。心を痛めた義経たちは、奥州へ下ることにしました。
下向の日、弁慶はいつもの武装をして、
「ただいま御曹司は奥州へ下向される。弁慶もお供つかまつる。さあさあわれわれを討ちとって手柄をあげよ!」
と大声で叫びましたが、人々は門戸をかたく閉じ、戦いを挑むものなど一人もおりませんでした。
「百日のうちには再び都に帰り、おごる平家をことごとく滅ぼし、都を安穏にしよう。平家の人々よ、われわれを斬れという清盛の命令を軽んじるか。今、二人をとどめずは、後に後悔することになろう!」
そうして義経と弁慶は奥州へと下っていきました。
■ 完 ■
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