Record ID
RB00013983
Language
日本語
Publication year
1864
Title in kana
ナカヤマ タダミツ ショジョウ
Alternative title
ローマ字タイトル: Nakayama Tadamitsu shojō
英語タイトル: Letter to Oba Denshichi
Author
中山忠光自筆
See For
中山, 忠光||ナカヤマ, タダミツ||Nakayama, Tadamitsu
Num. of books
1
Publication year (Jpn)
[元治1年]写
Physical form
写 軸物(紙本・紙装)・箱入
96×33cm
Type
写
Description
中山忠光は、忠能の子として弘化2年(1845) に生れた。文久3年(1863) 2月、19才で国事寄人に補せられたが、3月秘かに長州藩に走り、森秀斎と名を変え、下関の攘夷戦争において奮闘した。6月8日京都に帰ると日夜志士と交わり、8月13日大和行幸の詔が出されると、藤本鐵石、吉村寅太郎、松本奎堂等に擁せられて、天誅組の首領となった。同志とともに大坂に下り、河内国の義徒と合流して大和国に入り、五條代官を斬って討幕の烽火を揚げた。ところが、8月18日の政変によって政局は一変し、大和行幸は中止、天誅組は幕府軍に包囲されて、孤立無援となり、十津川の天険にたてこもり奮戦したが鎮圧されて、潰滅した。忠光は、これを逃れ、大坂の長州藩邸から海路長州へ下り、下関の豪商白石正一郎の宅に身を潜め、藩内の僻地に流寓の生活を続けることになる。
この書状は、元治元年(1864) 8月7日、大庭伝七に宛てたものである。伝七は、白石正一郎の弟で、忠光の潜居中、常に侍士として守護した。これより先の同年7月9日、上畑の常光庵に忠光は移るが、7月19日の禁門の変によって長州藩兵は敗退し、罪名を蒙ることになる。しかも、前年5月の下関攘夷戦争に対する英、仏、米、蘭による報復の報がもたらされた時、長州藩は恭順・主戦の二派に分かれた状態であった。この危機に際して、忠光は、常光庵を脱出し、外国艦隊との戦の陣頭に立とうとした。伝七は、この軽挙を諌めて常光庵に帰るように請うたが、聞き入れてはもらえなかった。8月5日連合艦隊17隻は下関を砲撃し、長州藩は大きな打撃をうけた。黒井に届っていた忠光は、8月6日、この書状を大庭伝七に送り、自身の決意を述べ、伝七の返答を求めたのである。伝七の切なる諌言によって忠光は上畑に帰るが、常光庵には入らなかったという。長州藩はこの後、第一回征長の役の危機に直面し、藩論は恭順謝罪に傾き、ついに忠光は、元治元年(1864) 11月15日、豊浦郡田耕村で暗殺され、波乱の20年の生涯を終えることになる。暗殺の日については、11月8日とか12月8日とか異説が多い。
NAKAYAMA TADAMITSU wrote this letter for OBA DENSHICHI, a younger brouther of SHIRAISHI SHOICHIRO(1812-1880). In it, he refered to his strong will to fight against the combined fleet of England, France, the United States and the Netherlands.
Note
吉田松陰とその同志展
維新DBリスト: 未展示品3
大庭伝七宛8月6日「忠光旧冬来云々」
Call No
尊/軸7/貴
Registration No
1799211
List No
未展示品3
Guide for Content Reuse
Attribution
京都大学附属図書館 Main Library, Kyoto University
Collection
Subcollection
Please use the URL below to link to this page: