通稱彌右衛門、豊後竹田の士。嘉永六年、兩肥二筑を歴遊し、所在の志士と相議し、文久二年、鹿島に赴き有馬新七等と氣脈を通じた。寺田屋事變に彼は部署の都合で殿列に在つた爲め幸に危期を脱するを得て京攝の間に留まり皇事に盡す所があつた。維新後堺縣知事となつたが間もなく致仕した。彼は生涯に幽閉謹愼を命ぜらるゝこと前後十三囘に及んだのも、皆憂國熱情の餘に出でたのであつた。明治十九年一月病みて歿す。"燒太刀の刄もさゆる秋の夜のつきにもみかく大和魂" 彼の憂國の至情と平昔の志を察すべきであらう。(出典:『尊攘遺芳』)