レコードID
RB00020558
出版年
1750
別タイトル
1750년 박상덕(朴相徳) 준호구(準戸口)
著者
朴相徳
参照形
朴, 相徳||박, 상덕
冊数
1
形態・版情報
1枚 ; 67.0×67.8cm
写刊の別
写
注記
文書
1750年(乾隆15、英祖26)、漢城府北部安國坊契(現在の鐘路区安国洞。統、戸は空欄)に居住する奉列大夫、行龍岡縣令の朴相徳(27歳、本貫は羅州)に対して、漢城府が発給した準戸口(戸籍証明書)。前回の戸口調査の式年である1747年(丁卯)の例にならって発給されるのが通例だが、本文書では1750年(庚午)となっている。家族は妻の申氏(28歳、本貫は平山)、祖母の貞敬夫人李氏(65歳、本貫は咸平)、母の李氏(43歳、本貫は完山)、仲母(叔母)の兪氏(34歳、本貫は杞溪)、弟の幼學の相岳(16歳)。その妻の金氏(15歳、本貫は安東)。本人と妻の四祖(父、祖父、曽祖父、外祖父)の名前と官位を記載する。ただし共に外祖父の姓と本貫を欠くが、これは双方とも宗親府の品階と邑号(青陵君、臨昌君)をもつ王族の宗室(完山李氏)だからである。なお本人の羅州朴氏は潘南朴氏と同じ。この他、奴11名、婢17名の名前、年齢が記載され、その大部分に父母の情報があるが、父はほとんど不明、母は班婢または私婢である。また奴婢には京奴、洪川婢、仁川婢、富平奴、藍浦婢、白川婢、果川婢など地名を冠した者があるが、これらは外居奴婢(納貢奴婢)で、地名のない者は率居奴婢(仰役奴婢)であると考えられる。朴相徳(1724 - 1779)は、後に宗徳と改名、字は汝壽、1746年(英祖22)、文科別試に及第、京畿道都事、司諫院正言を経て、1765年(英祖30)以後、長く吏曹判書をつとめ、公平清廉で知られ、王の信任を得、死後、孝憲と追諡された。本文書は科挙合格4年後の戸籍で、その官品、官職が奉列大夫、行龍岡縣令であったことは、本文書によってのみ知られる。弟の相岳(1735 - 1795)も後に宗岳に改名、字は汝五、小科進士試を経て、1766年(英祖42)、文科庭試に及第、1776年(英祖52)に大司諫となったが、翌年罷免され、1790年(正祖14)に礼曹判書、1792年(正祖16)右議政となった。冬至正使、進賀正使として二度、清朝に行った。死後、忠憲と追諡。奴婢の廃止を主張したことで知られる。準戸口については、解説〈南原梁氏の準戸口(戸籍証明書)について〉参照。
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請求記号
河合文庫//438
登録番号
200048
作成年度
2017
リストNO
438
所蔵
京都大学附属図書館 Main Library, Kyoto University
コレクション
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