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古瓦譜

谷村文庫は藤本ビルブローカ銀行取締役会長故谷村一太郎氏が収集した旧蔵本である。

谷村一太郎氏は明治4年(1871)富山県福光町の素封家に生れ、長じて慶応義塾大学に入学したが、のちに東京専門学校(早稲田大学)に転じ同校を卒業した。その後帰郷して中越鉄道支配人を経て、泉州紡績会社支配人となり、明治39年藤本ビルブローカ証券会社に入社した。

取締役に就任後、しばしば会社の頽勢を挽回し社運の進展をはかって会社興隆の基礎を築いた。大正14年藤本ビルブローカ銀行会長に栄進し、昭和の大恐慌時代の難局を克服して多大の業績を残した。昭和7年病床に倒れたが、治療につとめた結果、ようやく危機を脱した。しかし昭和8年ついに会長を辞して責任の地位を去り、閑地にいてひたすら健康の保持につとめたが、昭和11年(1936)3月京都で66歳の多彩な生涯を閉じた。

氏は縦横の敏腕を揮い、鋭利な商才を駆使して華々しく実業界で活躍したが、その反面書窓の閑寂を愛し孤燈の下に古書の繙読を楽しむ好学の士であった。氏が単なる一介の事業家でなかったことは「中嶋棕隠と越中」「青陵遺編集」「校註老松堂日本行録」等多数の学究的図書が残されていることでも明らかである。

氏の典籍収集の目標が単なる骨董的趣味でなかったことは、経済学者海保青陵の遺著を捜索して、「青陵遺編集」等の如き経済学の専門的著述の刊行があったことに徴しても十分首肯される。しかし氏の多方面にわたる典籍文書類の収集は、氏の愛書精神によるものであったことも否定できないであろう。特に氏は和漢の古典籍には異常な関心を寄せ、珍籍稀書の入手のためには千金を投じて悔いるところがなかったと伝えられている。

本文庫がほとんど和漢の稀覯書で満され、その豪華さ、潤沢さは目を奪うものがある。すなわち奈良朝では神亀3年(726)の申請筆事、天平12年(740)の光明皇后願経、平安朝では伝桓武天皇筆の写経をはじめとして其他数十巻の古写経、鎌倉時代では建保6年(1218)の大学頭藤原孝範の願文、室町時代では享禄3年(1530)の聚分韻略、天文5年(1536)版の八十一難経等の稀覯書も多数収蔵されている。

その外春日版、高野版、慶元古活字版等の各種の版式が多数に収集されているが、特に五山版は豊富で、氏はこの方面の収集家として有名である。応永11年(1404)刊の「仏祖正法伝」、貞和4年(1348)刊の「景徳伝燈録」はいずれも五山版であるが、わずかにその一斑に過ぎない。宣和6年(1124)の「法苑珠林」、紹興18年(1148)の「経律異相」等宋版の内典類は十数巻収蔵され、「太平御覧零本」「明修本尚書註疏」「明修本礼記正義」巻10零本1冊等稀少な宋版の外典も珍襲されている。

また「勅修百丈清規」等の元版、「欒城集」等の明版も少なくない。殊に「欒城集」は嘉靖20年(1541)刊行の木活字版で、他に求め難い珍籍である。なお明時代の稀書として「永楽大典」を挙げなければならない。本書は巻12929~12930 1冊の零本であるが、徳富蘇峰翁はこの巻が明の高宗皇帝の部に属し、大典中の圧巻であることを、その箱蓋に揮毫している。

国文学関係の典籍にも貴重なものが少なくないが、特に仙台藩召抱の猪苗代家伝世の連歌書類は、本文庫中の異色の収書として斯界において喧伝されている。猪苗代家は兼載を家祖とし、兼載の養嗣子兼純より代々連歌師をもって伊達家に禄仕し、明治初年の兼道に至っている。

猪苗代家本はそれ自体が他に類例の求め難い体系的な連歌蒐書として貴重な存在であるが、その中でも近衛信尹筆の「何木連歌」「何河連歌」文明9年(1477)の飛鳥井栄雅筆の「連学初学抄」等は、殊に特筆すべき代表的稀覯書であろう。なお「伊勢物語」等の連歌以外の室町期の写本も多数散見するが、猪苗代家本の大部分は徳川期の筆写本である。しかしこの時代のものは猪苗代家連歌の切紙、消息等の伝授書をはじめとして、同家歴代当主の連歌懐紙等で、猪苗代家連家の血脈と系統を伝えている。

谷村文庫が国文学、特に連歌部門に寄与する功績を、もちろん看過することはできないが、本文庫の最も誇るべき特色は、和漢古書の秘籍と版式の網羅ならびに古写経の収集にあるということができる。

本文庫は谷村一太郎氏の嗣子順蔵氏が、氏と姻戚関係にある前館長新村出博士を通じて昭和17年(1942)亡父の遺志を継ぎ、学術興隆の資に供するために家蔵の文書、典籍9、200余冊を寄贈したものである。なお一太郎氏の芳志を永久に記念せんがために、文庫本には秋村文庫の朱印が捺印されている。これは氏の雅号が秋村と称したことによる。

(解説の出典: 京都大学附属図書館編「京都大学附属図書館六十年史」第3章第3節)
 

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